会計士の肖像
PwC税理士法人
代表宮川 和也
「一度、海外を経験せよ」と、前出の鈴木氏から米国サンフランシスコ事務所勤務を命じられたのは89年。宮川はアジア事務所からの派遣第1号として、3年間赴任した。乏しかった英語力はもとより、「厳しいプロの世界」には四苦八苦させられたが、この機会が宮川を何倍も逞しくした。
いつもの楽観主義で、サンフランシスコ勤務も「何とかなるだろう」と思っていたら、これがとんでもない勘違い……。アメリカは本当に厳しい世界で、レイオフに何の躊躇もありません。みんな解雇されないよう仕事の確保に必死だし、マネジャーは自身の評価アップや昇進を狙って、いかに効率よくスタッフを使うかに必死。そんななかで、英語力の乏しい外国人、つまり私に回ってくる仕事などないわけです。「何かありませんか?」と聞いて「今はない」と答えていたマネジャーが、舌の根も乾かないうちに、ほかのスタッフに仕事を回す姿を何度も見ました。最初の数カ月はもう暇で、本当につらかった。存在を否定されたような感覚に陥り、正直、自暴自棄になりかけました。でも、何とか踏みとどまれたのは、鈴木さんに「人間腐ったら終わり。どんなに苦しくても自力で現状を打開しろ」と諭されたからです。
それから毎日、繰り返しの御用聞き。さすがに「しつこいけど哀れだ」と思われたのか、少しずつ仕事をもらえるようになり、それがどんなに些細な仕事であっても全力を尽くしました。ブレイクスルーとなったのは日系企業の投資案件です。複雑な英文レポートを作成したところ、出来栄えがよかったようで「こいつ、けっこう使えるな」と。あとラッキーだったのは、まだバブル終盤の時期で、日本からの投資案件がわりとあったこと。そこは日本人である私が重宝され、以降、マネジャーからの信頼も高まって徐々に日系企業以外の仕事も増えていきました。
英語漬けの生活で語学も身についたし、何より得たのはグローバルマインド。自分が井の中の蛙だったこと、世界の大きさと日本の小ささを実感したことで、「生涯、グローバルな仕事をする!」と、独立の考えは一切捨てました。米国駐在は、私の人生を変えた最大の出来事だったと思いますね。
赴任中に米国公認会計士資格も取得し、宮川は91年に帰国。そしてマネジャーとして3年間、M&Aや海外投資案件に携わった後、今度はまた別のかたちで"外に出る"。外資系金融機関に転職したのである。事務所にいればパートナーの道もあったが「ずっとアドバイザー側にいたので、一度はクライアント側の経験をしてみたかった」からだ。
慰留もあったのですが、動いてみたいという私の気持ちは変わらず、結果的には、米系投資銀行と米系商業銀行で4年半ほど仕事しました。この頃はデリバティブや仕組債が最盛期で、トレーダーやインベストメントバンカーといった金融機関の前線にいる人たちと組むのが、また刺激的で面白かった。私もバンカーとしての未来が、ふと頭に浮かんだこともあります。でも、やはり金融で生きてきた人間ではないので、ベースの力が未熟なことがわかってきて、次第に「どうしたものか」と先のキャリアを案じるようになりました。
そんな頃に、また恩人である鈴木さんが登場します(笑)。「戻ってくるか」と。ちょうどプライスウォーターハウス税務事務所(当時)との合併が決まったタイミングで、その新体制に向けて私を求めてくださったのです。まさに「Right Time Right Place!」。私は本当に、時々においていい人や機会に恵まれ、そのおかげで今日があると感謝しているんですよ。
従前と同じく国際税務コンサルティングに就き、多くのM&Aやクロスボーダー取引に携わってきました。なかでも、非常に緊密だったある日系プライベート・エクイティ・ファンドとの仕事は勉強になりましたね。通常のM&A案件は、対象企業が決まってからデューデリジェンスやストラクチャリング検討などに動くケースが多いのですが、このファンドとの仕事では取引の準備段階から関与することができ、税務を超えたところでのM&Aの醍醐味を経験して"幅"がすごく広がった。面白かったし、また、PwCが持つグローバルな組織力の強さを実感する日々でした。
PwC税理士法人代表宮川 和也