会計士の肖像
税理士法人山田&パートナーズ
名誉会長山田 淳一郎
山田淳一郎が独立・開業してから、来春2011年4月でまる30年。法人・資産税に強みを持つ事務所として走り出してから、今や総人員708名(取材時)を擁するまでになった山田グループは、業界有数の規模にある。企業再生、国際税務、内部統制、経営や不動産コンサルティングなど、ボーダレスな業務展開で拡大を続けてきた。が、山田はいわゆる野心家タイプではない。いたって直截的な事業家だ。インタビュー中、何度も口にした「フェア」「オープン」という言葉は山田の信条であり、性分そのもの。それが山田グループ各社の理念「健全な価値観」「社会貢献」「個と組織の成長」につながっている。彼の軌跡に触れれば、この変わらぬ信条こそが、事を成す一番の近道であることを教えてくれる。
鹿児島の国分市(現霧島市)で生まれましたが、子供の頃は八幡に住んだり、静岡の浜松で暮らした時期もあったりで、ちょこちょこ動いてましたね。というのも、親父が酒に溺れてたもんだから、安定した生活ができなくて。のっけから、こんな話でいいのかなぁ(笑)。お袋はいつも苦労していました。給料日になるとお金は飲み代のツケに回って、家にはほとんど残らない。祖父の家作の半分ぐらいは焼酎に消えたんじゃないかな。実質勘当されていたから、そのうち所在も不明になって。お袋が大変でしょ。弟と二人、なるべく手がかからないよう、子供なりにサポートしていました。
それで小学校3年の時、お袋の兄貴がいた浜松に引っ越したのです。2年ほどでしたが、浜松での生活はとても楽しかった。叔父は新聞記者だったので、野球や映画鑑賞のフリーパスを持っていて、ずいぶん“特権”を利用させてもらいました。弟と毎週のように東映映画を観に行ったものです。
ちなみに酒の話ですが、親父のことがあるので、僕はずっと飲まないほうがいいだろうと思っていたんですよ。でも二十歳を過ぎた頃、「一度飲んでみるか」と思いましてね。大学クラスの飲み会で。そうしたら、みんなよりはるかに強い(笑)。ただ、いい意味でのトラウマになっていて、常に「酒に飲まれない」飲み方をしますけど。
いつまでも叔父の世話になっているわけにもいかず、山田は小学校5年生になる春に母親の実家・鹿児島に戻る。一貫して学業優秀で、中学2年生の途中から、鹿児島屈指の進学校である県立鶴丸高校を受験するため一人暮らしを始めるのだが、その環境も加わって、山田は早くから自我を確立していた。なかなか“おませ”だったようだ。
当時は学区制で、鶴丸高校を受験するにはエリアが限られていたので、お袋の実家を出て下宿暮らしをしたんです。僕は、授業の時だけは真剣に学んだけど、それ以外は勉強しなかった。この時期からはっきり自我が芽生えて、スポーツや勉強をするより、好きな本を読んだり考え事をする時間が多くなりました。「俺って何なんだろう」。一番考えたのはこれ。その時に明確な答えが出たわけではないけれど、何が正しいか、間違っているか、自分の価値軸みたいなものは得ました。環境の変化、反抗期、そして自我の確立、全部重なった時期でしたね。
ある時、具合が悪くて朝病院に寄ってから学校に行くと、遅れた僕に、先生がうるさく注意する。それは違うだろうと反発したら向こうが矛を収めた。何だ、先生といえども普通の人間じゃないかと。まぁこれは一例で、早くから大人を信頼に足る人間かどうか見極めていた。相手が誰でも「おかしいことはおかしい」。はっきり口にするから、近所のおばさんは「淳ちゃんはやさしい子なんだけど、怖いところがあるねぇ」と言ってましたっけ。一人で暮らしていると何をするにも自己判断。かえって自律的になりますよ。
高校に進学してからは、合唱部に入りましたが、つまらなくなって半年ほどでやめちゃいました。ただその頃、女性の先輩たちが何かと気にかけてくれましてね。運動会の時、二人が弁当をつくってくれたんです。下宿から持参したのと合わせて3つ。さすがに食えなかった(笑)。そんな僕が目立っていたのか、年上の番長に呼び出されて「お前、生意気だ」と。ぐちぐち言うもんだから、「何を情けない。悔しかったら自分でアタックしろよ!」って言い返したら、ブン殴られずにすみました(笑)
休み中の課外授業にも、自分に必要ないと思えば行かないという調子。友だちはたくさんいたから“自主的”にキャンプをしたり、繁華街の天文館にもよく遊びに行ってました。その頃から今の女房とも付き合っていたんだけど、僕は何も臆さず、フルオープンでやりたいことを楽しんでいました。
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