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「変革の時代だからこそ、監査人としての気概、泥臭さみたいなものは、改めて重要だと思う」
公認会計士浜田康事務所
浜田 康
会計士の肖像
奥山会計事務所
日本公認会計士協会 相談役奥山 章雄
2000年代前半、会計基準の設定を官から民へ移行させた企業会計基準委員会の設立、公認会計士法の大改正、商法から切り離した会社法の制定をはじめ、会計監査のあり方に深くかかわる施策が矢継ぎ早に実行された。当時、日本公認会計士協会副会長、会長の職にあった奥山章雄は、会計士業界として主張すべきことを主張し、その改革の一翼を担う。奥山はまた、時の竹中平蔵金融担当大臣からの直々の要請で、日本経済に影を落としていた銀行の不良債権処理問題に関連するプロジェクトチームに加わり、「金融再生プログラム」の策定に貢献を果たしもした。「そんな仕事ができたのも運」「巡り合わせ」。そう振り返る人生のストーリーは、太平洋戦争のさ中に始まった。
生まれたのは、1944年の10月です。戦時下、母親は茨城の平潟町(現北茨城市)に疎開していました。平潟には今も漁港がありますが、当時は半ば軍港化されていたために、よく海上から米軍の艦砲射撃を受けたそうです。母親は、そのたびに乳飲み子の私を背負って、命からがら防空壕に逃げ込む。偶然右に駆け込んだから助かったけれど、左側に逃げた人たちは全滅してしまった、というようなことも聞かされました。私は、生まれながらにして運がよかったのでしょう。
翌年、戦争が終わり、母は私を連れて、戦前から住む家のあった東京の巣鴨に戻ってきました。敗戦後の日本は、ある意味ゼロからのスタート。私の半生は、丸ごとその歴史に重なります。
焼野原だった地元に幼稚園ができて、私はその第1期生として入園しました。ところが、退園も第1号。すでに〝波乱の人生〟を予感させなくもないのですが(笑)、幼稚園に行っていない近所の友達と遊びたかったから、というのが登園拒否の理由でした。
入学した小学校は、豊島区立仰高小という、私たちの卒業時に創立80周年を迎えた歴史のある学校でした。そこでは、教育熱心だった母親に言われるままに、土日も「進学教室」に通い、その甲斐あって東京教育大の付属中学校に入学。高校も付属高校に行きました。
中学の時から柔道を始め、高校でもやりました。華奢な体ながら、何とか初段は手にしたんですよ。でも、柔道より面白かったのが、スキーでした。もともと父親が好きで、冬になると連れて行ってくれたものです。
実は、この頃もう一つ熱中したのが「気象」でした。高3の頃には、ラジオの「気象通報」を聞きながら、自分で全国の天気図を書いていました。上野の天文台や渋谷にあった五島プラネタリウムにも足繁く通った。将来は「天文地理」の研究をやりたい、というのが、密かな夢だったのです。
とはいえ、大学受験が頭にちらつくと、思考は現実的になってくる。やはり自分は文系だろう、と考えた奥山は、進路を「経済とか会計の世界」に絞り込んだ。「受験勉強はあまりやらなかった」と言うのだが、64年、早稲田大学第一商学部に現役合格を果たす。
会計に興味を持ったのには、税理士をやっていた父親の影響もあったのだと思います。自宅を事務所にしていて、職員さんとも仲良くなったりして。正直、申告書をつくるといった仕事自体には、あまり魅力を感じなかったのですが、会社の実態を表す会計という学問は面白そうだと、何となく惹かれるものがあったのです。
早稲田のバンカラ的なところは、私の性に合いました。早速スキー同好会に入り、冬はスキー、夏はテニス。一方で、商学部に入ったのだから会計関係の勉強もしたいと思っていたところで出会ったのが、管理会計の大御所だった青木茂男先生。その講義に大いに啓発されて、3年になると青木ゼミを選択しました。私にとっては、まさに恩師。公認会計士になろうと決めたのも、先生に勧められたからです。
ところで、当時の早稲田は全国一の学生運動のメッカでした。そうやって本格的に学び始めた矢先、学費値上げ反対闘争が勃発します。やがて全学規模のストライキ、バリケード封鎖により、授業も試験もままならない状況になってしまいました。
私も地方出身者などが入学しにくくなる学費の値上げには反対の立場で、初めは運動に参加していたんですよ。でも、そのうちに商学部の闘争を主導していた過激派の革マルに不信を抱くようになり、彼らの言う「革命的マルクス主義」について、にわか勉強してみたのです。その結果、彼らについていったら一生浮かばれない、と(笑)。
そこで、青木先生、染谷恭次郎先生など理解ある先生方とともに、スト解除、学内の正常化を求める「有志連」を結成し、その中心の一角を担いました。毎日のように対策会議を開き、ビラなどをつくり、集会で革マルと対峙し、寝泊まりは学生会館や近くの雀荘。そんな活動が実り、ようやく開催された学生大会で、圧倒的多数で封鎖の解除が決まったのは、商学部でバリケードが築かれてから120日後、4年生の5月のことでした。
まあ、熱き青春時代の思い出です。想定していた学生生活とは、ずいぶん違ったものになりましたけど。
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奥山会計事務所日本公認会計士協会 相談役奥山 章雄