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「変革の時代だからこそ、監査人としての気概、泥臭さみたいなものは、改めて重要だと思う」
公認会計士浜田康事務所
浜田 康
会計士の肖像
株式会社日本エム・ディ・エム
代表取締役社長大川 正男
大川正男が社長を務める日本エム・ディ・エム(以下日本MDM)は、骨接合材料や人工関節など、整形外科分野を中心とした医療機器の開発・製造、販売を行う専業大手である。金融関係ではなく、こうした事業会社で公認会計士が陣頭指揮に立つのは希少だ。20年近く監査法人で勤務したのち、実業界へ。日本MDMの創業者から「後継社長に」と請われ、45歳の時に転身を図った。大川の胸にあったのは、「企業活動の後方支援にとどまらず、前線で新しい事業価値やモノをつくり出したい」という思いだ。入社後は、業績低迷にあった米国子会社の再建や、さらには商社からメーカーへの業態変換と、難局にも直面したが、大川は培った会計実務経験と真っ直ぐな心持ちで、その才覚を発揮してきたのである。
自由気ままに育ち、子供時分から、好きなことを好きなようにしてきました。わんぱくで、小学校では授業に出ないで体育館で遊んでいたり、子供同士でケンカもしたりと、先生によく怒られたものです。僕が職員室で座らされていると、その横を、呼び出しをくらった親が通り過ぎるとか、しょっちゅう(笑)。でもまぁ、成績はちゃんと取れていたので、父は高校の教員でしたけど、小言を言わず、自由にさせてくれましたね。それと、故郷の群馬にはけっこう古墳があるのですが、古墳巡りが好きな先生に連れられて、仲間たちと遊び回ったのもいい思い出です。
あとは、とにかく野球。小学校3年の頃には自分たちでチームをつくり、夢中になっていました。本気で甲子園を目指した野球少年で、当時の夢は、当然のごとくプロ野球選手になること。中3の時、群馬県大会で優勝し、関東大会に進んだんですよ。1回戦で負けてしまったけれど、ピッチャーとして神宮第2球場のマウンドに立てたのは記憶に強いです。余談ですが、この時、大会の審判から「なんでピッチャーの帽子だけ色が違うんだ」と注意されまして。ずっと使い続けてきたから、汗で変色したという話なんですけど、それくらい野球に対する思い入れが強かった。中学を卒業したら、その帽子、「汚いから」って、母親があっさり捨てちゃいましたけどね(笑)。
県下の進学校、前橋高等学校に進学してからも、大川は硬式野球部で投手として活躍するが、肘の不調から、1年生の夏にはあえなく野球を断念。が、「体を動かすことが好き」な大川は、直後にラグビー部に転部し、最終学年で、やはり県大会優勝を経験している。一方で、高校生の頃から興味を持ち始めたのが「詩の世界」。まさに文武両道、大川の“守備範囲”は広い。
萩原朔太郎が同じ前橋高校の出身なので、作品に触れる機会がけっこうあったのです。群馬を詠んだ詩もたくさんありますしね。ほかには伊藤静雄とか、彼らの詩の世界に感銘を受け、僕も少しかじるようになっていました。ラグビーもそうですが、好きなことを気ままにやるのは相変わらずで、そのぶん、高校時代の成績は、学年が上がるにつれて低落です。
そもそも、プロ野球をあきらめた段階で、「将来どうする」は白紙でした。職業イメージなど持てず、大学に進学するといっても、何かを目指して熱心に受験勉強するという感じではなかった。田舎でしょう、何となく「国立大学へ」みたいな空気があったものだから、僕も受験したのですが、当時でいう一期校の大学には受からず、いったん浪人生活へ。予備校に通うために上京し、その後、横浜国立大学に入学しました。経営学部を選んだのは、多分に受験科目からで、さしたる理由はなかったんですけど。
また余談ですが(笑)、僕、横浜国大の前に、早稲田大学の文学部に入ったんですよ。“中退”する前提で。特に文芸や芸能の世界では、早稲田を中退して活躍している人が多いでしょう。どこかで憧れていたのかもしれません。でも結局、通ったのはほんの数日。授業料も半期分しか納めていなかったから、除籍ですよ。目論んでいた中退にならなかったし、入学したことすらなかったような話です(笑)。
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株式会社日本エム・ディ・エム代表取締役社長大川 正男