- vol.75
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「変革の時代だからこそ、監査人としての気概、泥臭さみたいなものは、改めて重要だと思う」
公認会計士浜田康事務所
浜田 康
会計士の肖像
ピー・シー・エー株式会社
代表取締役社長 CEO水谷 学
基幹業務ソフトの大手、ピー・シー・エー(以下PCA)で経営指揮を執る水谷学は、社長、公認会計士、そしてエンジニアとしての顔も併せ持つ。遡れば、子供の頃からコンピュータに関心を抱いており、そこに、会計士としてのスキルが合わさったことで、水谷は“個性”を発揮してきた。「コンピュータに強い会計士」として重宝され、水谷自身もまた、常に先を見据えた製品やサービス開発に心血を注いできた。先頃では、クラウド事業への本格参入、会計ソフト会社のグローバル連合「ALAE(アーレイ)」を立ち上げるなど、より先進的な取り組みを見せている。根底にあるのは、顧客、会社のために、ひいては業界発展のために貢献し続けたいという、真っ直ぐな思いだ。
本当に勉強しない子供だったんですよ。生まれ故郷の桑名は三重県の北端にあり、近くに揖斐川が流れているので、釣りばかりして遊んでいました。田舎だから塾など無縁だし、そもそも三男ですからね、親も放任というか自由にさせてくれた。いろんなことに興味を示していたのですが、なかでも熱中したのは将棋です。子供の頃から論理的な考え方が好きで、相手がどう指してくるか、2手、3手先を読みながら戦うゲームが性に合っていました。小学校低学年から始め、早々に父や兄を打ち負かしたものです。独習だから、変わった打ち方をしていたらしく、上級者からもよく驚かれました。
そして、コンピュータ。テレビで見た、白衣を着た大人が“大きなハコ”を操って仕事している様がカッコよくて、すごく興味を持ったのです。幼心にはSF的に映ったというか、未来の世界に惹かれたんでしょうね。ただ、興味は持ったものの、自分の進路に重ねることはなかった。勉強しないから成績は低空飛行だったし、これといった憧れの職業もなく……。あまり欲のない子供でしたねぇ。
それが中学生になってから、急に成績が上がったのです。理由は、突然表れた驚異的な記憶力(笑)。教科書は、パッと見るだけで写真を撮ったように覚えちゃうし、授業ならば、先生が何月何日に何を教えたか、全部覚えているという具合です。だから、勉強しなくても、それらを思い出せばテストの答案にも困らない。なぜそうなったのか、自分ではわからないんですけど。
しかしながら、「ちゃんと勉強しなかったツケは回ってきて、地域で一番の高校には行けなかった」。加えて、進学した三重県立四日市南高等学校は家からかなり遠く、「通うだけで大変だった」と、水谷は苦笑する。
まず、四日市に行くまでに電車を3線乗り継ぎ、さらに丘陵地を延々と歩く。片道1時間半以上の道のりで、いろんなことを考える時間はたっぷりあったけれど、朝は早いし、帰りも遅くなるでしょ。結局、部活もできずで。中学生の時は、陸上部やバレーボール部に所属していたのですが、ハードな運動を急にやめちゃったから、心臓が縮んでしまい、持久力を求められるような運動が苦手になりました。
元来、僕は理系だけれど、理系はお金がかかるので、進路を意識し始めた頃、文系に転向したんです。三重からだと、たいてい名古屋か関西方面に出る人が多い。僕もその一人で、最初は英語を学ぼうと同志社大学を受験したのですが、ヒアリングが悪くて見事に落ちてしまった。一方、兄の友人が中央大学に通っていた縁で、「それなら上京しても心細くない」と、とりあえず受験して合格したのが、中央大学の商学部。だから、僕は“たまたま”入ったわけで、「公認会計士を目指して」という話ではないんです。その存在すら知らなかったし(笑)。
漠然と、資格取得を目指すのもいいかなぁと思ったのは、入学が決まり、大学から送られてきた資料を目にしてからです。「当大学は、こういう資格試験に強い」みたいな案内があってね。そこで初めて意識したのです。
入学すると、サークルの勧誘を受けるじゃないですか。僕が入ったのは、簿記会計サークル「白門会」。狭き門ではあったけれど、運良くテストに合格することができた。正直なところ、白門会を選んだのは寮制だったからなんですよ。実家からの仕送りが少なかったので、寮に入れば二食つくし、飢えずにすむ(笑)。ご飯につられてというお恥ずかしい話ですが、あわよくば、それで資格も取れるといいなぁと。
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ピー・シー・エー株式会社代表取締役社長 CEO水谷 学
[主な役職]
日本公認会計士協会IT委員会XBRL対応専門委員、一般社団法人XBRL Japan理事、社団法人コンピューターソフトウェア協会筆頭副会長、社団法人日本コンピュータシステム販売店協会監事など
vol.30の目次一覧 |
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