- vol.75
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「変革の時代だからこそ、監査人としての気概、泥臭さみたいなものは、改めて重要だと思う」
公認会計士浜田康事務所
浜田 康
税理士の肖像
EY税理士法人
統括代表社員網野 健司
世界150カ国以上にネットワークを展開する大手会計事務所、EY(アーンスト・アンド・ヤング)のメンバーファームであるEY税理士法人は、国際的かつ高品質な税務サービスを提供するプロフェッショナル集団である。網野健司が、統括代表社員という要職に就いたのは2010年、ちょうど50歳の時だった。聞けば、網野は“出戻り”を含めて、7回ほど職場を変えている。「英語が堪能で、金融に通暁した税理士」として重用され、外資系の金融機関に請われたこともあった。どのような環境下でも、「求められたことには、必ずそれ以上の成果を出す」のが信条。運と人との出会いに恵まれ、また、その一つひとつを誠実に受け止めてきたことが、網野のキャリアを色豊かなものにしている。
故郷の山梨県で、父はずっと教職に就いていました。周囲は皆、「あの先生の子」と知っているから、あまり無茶なこともできず、まぁ普通の子供だったと思いますよ。どちらかといえば、僕は外で飛び回るのが好きで、サッカーやスケート、長距離など、けっこうスポーツはやっていました。もともと父が、スポーツを観るのもするのも好きで、その影響を受けたのでしょう。夜に駅伝コースに連れて行ってもらって、よく練習したものです。今、やっているのはゴルフくらいですけど。
安定しているからなのか、「先生という仕事はいいぞ」と両親からも言われていましたし、一番身近な職業が教員でしたから、自然な成り行きとして、僕もそうなるんだろうと、ずっと思っていました。
自分なりに職業をイメージしたのは、山梨県立の都留高校に進学してからです。いい英語の先生につけて、それまで理系だった僕が、すっかり英語好きになりまして。学生の頃って、先生によって教科の好き嫌いが大きく左右されますからね。今思えば、これがきっかけになりました。漠然とながらも、世界を股にかけるようなビジネスに関与したいと思うようになったのです。なかでも憧れていたのは外交官でした。
とはいえ、英語以外はそう熱心に勉強したわけではないんですよ。進学クラスにいながら、覚えたマージャンが面白くなって、いわゆる帰宅部として毎日のようにやっていたので(笑)。
網野は謙遜気味に話をするが、中学では生徒会長、高校でもクラス長を務めるなど、リーダーシップは早くから発揮されていたようだ。自分から手を挙げるタイプではないが、推薦されたり、周囲に請われることが多く、それは今日まで変わっていない。進学した立教大学(経済学部)では、スキーツアーを企画する学生チームを立ち上げ、ビジネスめいたことにも着手した。
これも、父の影響があると思います。僕が高校生の頃には校長をしていたのですが、毎日、生徒たちの前で話をする姿を見ていて、求心力というか、人をまとめるスキルのようなものが、自然と身についていたのかもしれません。それと、人にではなく自分に対して厳しいという姿勢。だから、僕もいったん引き受けるとなれば、どんな役目でも全力を尽くしてはきました。
進学してからも変わらず英語が好きで、大学だと外国人の先生が授業をするでしょ、なおのこと熱心になりました。のちに、ヒューストンに赴任した時、英語にはひどく苦労させられたので、本当は早い時期に海外に出ていればよかったのですが、そこまでの踏ん切りはつかず……。大学ではサークル活動に勤しんでいました。
テニスやスキーが一番人気の時代で、僕も、そのくち。仲間十数人で「ホットケーキ」というチームを立ち上げ、冬場は志賀高原に行くスキーツアーを企画するんです。ほかの大学の学生や社会人にも声をかけ、集客からバス、ホテルの手配など、運営のいっさいを仕切る。学生ビジネスとまではいえませんが、まぁそれ的な。残念ながらあまり儲からなくて、少し出た利益を仲間うちで山分けする程度でした(笑)。
そんなことばかりで、あまり授業には出ない学生生活でしたが、実は、当時のガールフレンドのお父さまが、大きな税理士事務所を構えていたんですね。「こういう商売があるのか」――資格を生かして自分で仕事をするという姿に憧れたのが、この道に進んだ直接的なきっかけなんですよ。そのお父さまから「今勉強するか、年をとってから勉強するか、どっちかだよね」と言われたのが、大学4年の時。どこかで、ちゃんと勉強してこなかった自分に対する不燃焼感があったし、このままではダメだと。それで一念発起し、税理士試験を目指すことにしたのです。
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EY税理士法人統括代表社員網野 健司
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