- vol.75
-
「変革の時代だからこそ、監査人としての気概、泥臭さみたいなものは、改めて重要だと思う」
公認会計士浜田康事務所
浜田 康
会計士の肖像
有限責任監査法人トーマツ
包括代表國井 泰成
公認会計士という職業を初めて知ったのは大学時代。いわゆる宮仕えに対して不自由なイメージを持っていた國井泰成は、ごく自然にこの道を選んだ。等松・青木監査法人(現有限責任監査法人トーマツ)に入社したのは1985年、以来、三十数年にわたって監査一筋に歩んできた。様々な経験から学び得た監査業務の深さが國井を捉えたのだろう、「やめようと思ったことは一度もない」と明言する。順当にキャリアを重ね、包括代表に就任したのは2018年、トーマツが50周年を迎えた大きな節目でもある。今、國井が見据えているのは“監査の未来づくり”。監査の在り方そのものを俯瞰的に捉えた「Audit Innovation」の推進に、全力を注いでいる。
大学入学で上京するまでは、出身地である富山市で過ごしました。一人っ子なので、いつも近所の年の近い子たちと遊んでいた記憶があります。けっこうやんちゃでしたね。3歳の頃だったか、三輪車で走り回っていたらそのまま川に突っ込んじゃって、柳の枝にしがみついて泣き叫んでいたところを助けられたという話があります。後に親から再三聞かされましたが、自分でも無茶をするなぁと(笑)。
小学校の頃は少年野球のチームに入り、アニメの影響で流行り始めていたサッカーもやっていました。そして中学ではバスケットボール。当時はゲームなどない時代ですからね、盛んだった球技に皆で熱を上げたものです。ただ、バスケに関してはひどく弱いチームで。女子チームは県大会で優勝するほど強かっただけに、「やっていた」というのもはばかれるのですが。
富山の産業といえば昔から製薬・売薬(医薬品配置販売業)が有名で、父も製薬会社に勤めていました。法律的な問題に対処する時に、弁護士とやり取りする機会が多かったらしく、私に「弁護士を目指したらどうだ」とよく言っていました。とはいえ、子供がイメージできるわけもなく、「そういう仕事があるんだ」くらいの認識でしたが、どこかで士業への憧れが生まれていたのかもしれません。
もう一つ、父から影響を受けたのは本です。読書好きで、家にものすごくたくさんの本があったものだから、気がつけば、私も手当たり次第に読むようになっていました。小説が多く、なかでも司馬遼太郎の『坂の上の雲』が単行本化された頃は、父が読み終わるのを待ち切れなかった覚えがあります。高校は、地元では進学校である県立の富山高校に通っていたのですが、受験勉強シーズンになってもあまり勉強せず、本ばかり読んでいました。もうバリバリの文系でしたね。
特段の理由があったわけではないが、思春期の少年らしく、國井もまた「一人暮らしをしてみたかった」。上京し、進学したのは明治大学の経営学部。冬は大雪に見舞われる富山で育った國井にとって、一番の驚きは、冬の空が晴れていることだったという。「凧揚げや独楽回しが正月の遊びだというのは、なるほどなぁと納得しました」。
古本屋がたくさんあることにも驚きました。相変わらず小説ばかり読んでいたので、これはうれしかった。バイト代のほとんどは本に消えていくという感じでしたね。サークル活動も少しはやったのですが、一人っ子だからなのか、あまり人と群れて何かをするのが好きじゃないので、基本は本と付き合う生活でした。
最初に住んでいたアパートを出て、また親と一緒に暮らすことになったのは3年の時。父が会社を辞めて独立し、千葉で売薬の共同事業を始めたのです。ひょっとすると、いずれは継がせたい気持ちがあったのかもしれませんが、まぁ共同事業でしたし、父がそれを口にすることはなく、やはり「弁護士に」と言っていました。就職を意識する段になって、さて将来どうしようかと。教養過程で法律の授業も取ってはいたのですが、自分に向いているとは思えず、かといって、サラリーマン生活はどこか息苦しそうで気が向きませんでした。
友人が「公認会計士を目指そうと思っている」と話をしてくれたのは、そんな頃です。会計士という職業があること、どんな試験があって何を勉強するのか、この時に初めて知りました。やはり士業への憧れはあったのでしょうね、大学3年の終わり頃、私も会計士を目指そうと決めたのです。数字の世界とはいえ、扱うのは文系的な数字で興味を持てたし、今考えると「知らなかったから」という面はあるかもしれませんが、何より会社員よりは自由に過ごせるのではないかと思って(笑)。
この記事の続きを閲覧するには、ご登録 [無料] が必要です。
有限責任監査法人トーマツ包括代表國井 泰成