- vol.75
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「変革の時代だからこそ、監査人としての気概、泥臭さみたいなものは、改めて重要だと思う」
公認会計士浜田康事務所
浜田 康
会計士の肖像
株式会社豆蔵ホールディングス
代表取締役社長荻原 紀男
ソフトウエア開発やシステム構築を柱に、高度なITソリューションサービスを提供する技術者集団、豆蔵ホールディングス。その集団を束ねる荻原紀男は、会計業界においては異色の存在である。監査法人勤務を経て独立し、事務所を開業したのは38歳の時。順風な環境にありながらも飽き足らず、次いで41歳の時には、システム会社・豆蔵の設立に参画し、「会計士社長」として事業を牽引してきた。顧客志向の開発姿勢を貫き、そして、M&Aを積極的に重ねることで、今日の成長著しい企業体を築いたのである。「やる」と決めたら、どんなリスクも苦もいとわない。むしろ艱難に挑み、乗り越えることに喜びを感じるという荻原の人生は、バイタリティにあふれている。
「甘ったれたことを言うな。泣き言を言うな」。元軍人だった父親の教育は、本当に厳しいものでした。母も同じく「家から一歩出たら7人の敵がいると思え」という調子で、要は戦う男になれと。幼い子を相手にね(笑)。それでも、私はものすごく素直な子供だったから反発したことがなく、むしろ、何を言われてもすべて吸収しようという意識が強かったように思います。「体をつくれ」「勉強しろ」ともよく言われていたので、小学生の頃から毎日欠かさず野球をやっていたし、読書量もけっこうすごかった。性分なのか、時間を無駄にするのがとにかく嫌いで、じっとしていられない。それは今でも変わっていませんね。
なので、成績もよかったんです。昔の5段階評価で、いつも「オール5」。自分で言うのも何ですが、小学校では神童だと言われたものです。ところが、中学受験に失敗したあたりから、話が変わりまして……。名門の麻布学園から東大を目指し、いずれは官僚になるというコースを描いていたのですが、早々に挫折ですよ。結果、桐蔭学園に入ったものの、当時はまだ今ほどの進学校ではなかったから、何だか気が削がれちゃって。そうこうしているうち、今度は野球でケガをし、肩を壊してしまった。「もう甲子園はない」と挫折感が続くなか、中3の夏、とどめのように迎えたのが父親の病死でした。
父親は老舗百貨店でエリート畑を歩んでいたので、生活はわりに裕福だったのですが、文字どおり生活一変です。病気がちだった兄と幼い妹の世話をしながら、暮らしを支えた母は本当に大変だったと思う。私も家計を助けるために、学校が休みの日には懸命にバイトしたものです。
そんな事情から「手っ取り早く稼ぎたい」と考えていた荻原に、公認会計士という職業を教えてくれたのは、高校の友人だった。弁護士も視野にあったそうだが、会計士がアメリカで高い評価を受けていることを知り、「追って日本でもいい職業になる」と将来性を感じた。そして荻原は、まずは資格取得を目指すため、奨学生として中央大学商学部に進学したのである。
学費や生活費を稼ぐために、ほとんどバイト漬けでしたし、3年生になってからは専門学校にも通い始めたので、大学時代は全然遊べなかったですね。運送業をはじめ、青果店とかガソリンスタンドとか、様々な業種での販売業……バイトは何でもやりました。それも「バイトなんだから、そこまで頑張らなくていいのに」と言われるほど懸命に。やるなら徹底的に、という性分がうずくのです。運送業ならば、誰よりも重い荷を運びたいし、モノを売るのならば、先輩や社員より多く売りたい。実際、ガソリンスタンドでオイル販売キャンペーンがあった時、私、断トツの成績を挙げたんですよ。
ちょっと余談になりますが、私は幼少期に乳母さんの世話になっているんですね。母が病弱な兄にかかりっきりだったから。その乳母の郁ちゃん、会津から来た方で、地元の名士である野口英世がもう大好き(笑)。伝記がすべて頭に入るほど話を聞かされました。「何かを成し遂げる」ことの素晴らしさを、幼いうちに刷り込まれたというか、彼女からの影響と、親の厳しい教育とが相まって、私の骨格が形成されたような気がします。
公認会計士の試験は4年から受け始め、合格したのは4回目のチャレンジ、25歳の時でした。専門学校には通いましたが、中大のゼミで教わるような時間は取れず、基本は独学です。当時は合格率が5%前後の時代でしょう、途中、「このまま受からなかったら……」という不安はもちろんありました。でも、先に受かった受験仲間の勉強内容や、その量を見ていれば、自分がどれくらいやればいいのか見当がつく。「資格は取れる」と信じていたし、進む道を迷ったことは一度もなかったですね。
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株式会社豆蔵ホールディングス代表取締役社長荻原 紀男