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「変革の時代だからこそ、監査人としての気概、泥臭さみたいなものは、改めて重要だと思う」
公認会計士浜田康事務所
浜田 康
会計士の肖像
住田清芽公認会計士事務所
住田 清芽
長年にわたって監査法人に在籍した住田清芽のキャリアは、監査基準の変革、進化と軌を一にする。法人内において、グローバルベースの監査メソドロジーを定着させる活動にかかわったのが1995年。ここを起点に、通じて日本の監査基準の開発・改正にエネルギーを注いできた。日本公認会計士協会では約20年にわたって監査基準委員会の活動に従事し、また、金融庁企業会計審議会の委員を長く務めるなど、その歩みは非常にパブリックなものだ。「深く興味を持てる領域で、社会的意義のある仕事を続けてこられたのは幸せなこと」――住田の言葉には、職業人としての誇りが刻まれている。
生まれは香川県ですが、小学校3年の時に内科勤務医だった父が上京することになり、以来ずっと東京です。外で遊び回るというより、大好きな本ばかりを読んでいた私は、手のかからない子供だったと思います。とりわけ夢中になったのは、アーサー・ランサム全集の代表作『ツバメ号とアマゾン号』で、イギリスの湖水地方を舞台にした子供たちの冒険物語。ワクワクしながら読み耽ったものです。たぶん性分的にも合ったのでしょう。
次女で放任されたせいか、誰に頼るでもなく、何事も自分で決めて行動するといった自立心が強かったように思います。中学生の頃には、「一生続けられる仕事がしたい」「誇りの持てる仕事を持ちたい」と考えるようになっていました。そして、そのためには資格を取る必要があるだろうと。もっとも、公認会計士という職業を知ったのは大学生になってからなので、この頃は、資格といえば弁護士かなぁと思っていたんですけど。
進学した都立の富士高校は、いわゆる受験校ですが、とにかく自由な学校で本当に楽しい3年間でした。これまでの仕事柄、私は優等生だったようなイメージを持たれるのですが、そうではなく……。夏休みの宿題なんて、例年ギリギリの猛ダッシュでしたし、科目も好き嫌いがはっきりしているものだから、まったく目が向かない物理などはひどい点数で(笑)。先生から「偏りはよくないよ」と言われたくらい。ただ、そのぶん、興味あるものは徹底的に深く掘り下げていくのが好きで、この志向はずっと変わらないですね。
弁護士を意識して法学部進学を考えてはいたが、受験が思うようにいかず、住田は東京女子大学文理学部に入学。「女子大には行きたくなかった」そうだが、社会に出てしっかり働ける女性を育てる同大学の環境は、決して悪くなかった。住田はここで公認会計士という職業を知り、自ら動いたことで、人生を開く入り口に立ったのである。
実際、東女の卒業生には精力的に仕事をする先輩が多かったし、大学も「4年間勉強させてもらえることのありがたさをかみしめるように」というスタンスでしたから、入ってみれば、とてもいい大学でした。母の友人の娘さんがやはり東女出身で、会計士になったという話を聞いたのも入学後。この時初めて、「公認会計士という仕事があるんだ」と知ったのです。
社会学科のなかには経済学コースもあったのですが、あまり広がりがなく、私にはちょっと物足りなかったんですね。それで、もっと勉強したくて早稲田大学の専門学校に入ったんです。今はもうありませんが、産業経営専門課程会計科という名称で、会計大学院のミニ版みたいな感じの夜間学校。大学2年と3年の2年間、週3日通っていました。普通に学費もかかりましたから、親にすれば「えっ? 別の大学にも行くの?」という話でしたが(笑)。
カリキュラムには監査論や財務諸表論、簿記、商法などが入っていて、学問として学ぶ雰囲気に惹かれました。なかでも覚えているのは、会社法と監査論の授業がすごく面白かったこと。勉強そのものが楽しくて、当初は真剣に会計士試験を意識していたわけじゃないのですが、3年の終わり頃、監査論を教えていた脇田良一先生から受験を勧められたんですよ。「せっかくここで勉強しているんだから、まずは税理士試験の簿財からでも受けてみたら?」と。そして、ステップの踏み方などについても手ほどきしてくださった。
今思うと、脇田先生と出会えたことが一番大きかったですね。この機会がなかったら、会計士になれたかどうか……。就職を意識する時期にあって、「何年も受からなかったらどうしよう」という不安な気持ちに、先生は、背中を押すことで踏ん切りをつけさせてくれたのだと思います。
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住田清芽公認会計士事務所住田 清芽