会計業界の起業人
株式会社豆蔵OSホールディングス
代表取締役社長荻原 紀男
監査法人勤務を経て、38歳で独立。その後、システム開発会社を設立した荻原氏は、会計士ならではの発想で連結納税ソフトを商品化。自社開発のソフトウエア開発体系「enThology」メソッドをベースにしたコンサルティング、人材教育、開発をはじめとする幅広い事業分野で、経営手腕を発揮している。
「公認会計士を目指したのは、高校生の時。以来、自分に課した目的達成のために、ひたすら突っ走ってきました。周りの人からは、よく『いつ休むのか』と聞かれますが、死んだらいくらでも休めますからね(笑)。僕に言わせれば、『人生は、戦いの連続』です」
そんな愚直なまでに一途な性格になったのは、両親の影響が大きいという。
「戦争から戻って、老舗百貨店に勤めていた父は、とても厳しい人でね。家にお客さまが来ると、額を床に着けて土下座させられました。しかも怒るときは、決まって『貴様、それでも軍人か!』とくる。僕はただの小学生なのにね(笑)。母は母で、『お前は、戦士だ。門の向こうには7人の敵がいるから、人前で隙を見せるな』と言い続けていました」
ところが、中学3年生の時に父親が他界すると、それまでの生活が一変。母親は、病気がちの兄と幼い妹の世話をしながら家計を支えてくれたという。
「早く大人になって、お金を稼ぎたいと思いました。そんな時、高校の友人から公認会計士という職業があると聞いて、中央大学商学部に入学。まずは、資格取得を目指しました」
学費稼ぎのためのアルバイトをしながら、会計専門学校へ通い始めて5年。25歳で第二次試験に合格した荻原氏は、アーサー・ヤング会計事務所(当時)へ入所した。
「会計士協会の就職説明会に行ったら、空いているブースを見つけましてね。『暇そうですね』と声をかけたら、『じゃあ、お前が入れ』と言われて、そのまま入所しました(笑)」
覚悟はしていたものの、仕事は多忙を極めた。クライアントの決算や会計監査の対応で徹夜も続いたが、どんな難題、難問にも正面から取り組み、一つひとつ克服していくことが自らの成長につながると信じていた。
「当時から『No pain, No gain』と考えていましたからね。その後、朝日監査法人(当時)から、『総合商社の支援業務に就いてほしい』とスカウトされた時は、いろいろな人や仕事にかかわれるチャンスだと即決しました」
それから8年後、その仕事ぶりが評価され、パートナー就任を打診された荻原氏は、意外な決断をする。
「パートナーになったら辞められなくなる、と思ったんです。それで、あっさり退職(笑)。川崎市の自宅をオフィスに、会計事務所を開業しました」
それで終わるつもりはなかった。顧客からの信頼を獲得し、巡ってくるチャンスを確実にとらえようと、寝る間も惜しんで税務相談に応じた。
「そんな時、顧問先の一つで、米国から帰ってきたばかりのIT技術者から、『オブジェクト指向の技術導入支援を行う会社をつくりたいから、手伝ってほしい』と、誘われたんです」
当時は、まだオブジェクト指向プログラミング言語である“Java”ができたばかり。「この仕組みを利用すれば、格段に開発効率が向上する」という話を聞いて、将来性を感じた。
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株式会社豆蔵OSホールディングス代表取締役社長荻原 紀男