- vol.75
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「変革の時代だからこそ、監査人としての気概、泥臭さみたいなものは、改めて重要だと思う」
公認会計士浜田康事務所
浜田 康
会計士の肖像
企業会計基準委員会(ASBJ)
委員長西川 郁生
国際会計基準(国際財務報告基準、以下IFRS)が強制適用されるか否か――その判断を2012年に控え、今後の成り行きは一層の注目を集めている。IFRS対応の中核的な役割を担う民間団体「企業会計基準委員会」(以下ASBJ)のトップに就く西川郁生の日々は、当然ながら多忙だ。ぴったり50歳で監査業務の“現場”を離れ、以降10年近く、日本の会計基準づくりやその国際化に専心してきた。
一方で、同じく50歳でマラソンを始め、好成績を挙げる市民ランナーとしての顔も持つ。東京スカイツリーが高くなっていくのを見上げながら、毎日のように荒川の土手を走っているそうだが、このエリアは、西川の人生の記憶がスタートした地でもある。
出生は佐賀県なのですが、4歳の時に一家で葛飾区に引っ越してきたので、佐賀時代の記憶は全然ないんですよ。戦争から戻って郷里の佐賀にいた親父は、友人の声かけで上京し、溶接などを行う中小企業を経営していました。母親は経理として会社を手伝っていたから、祖母が夕飯の支度をし、僕ら兄弟3人の世話をしてくれていました。家の隣に工場があったので、住み込みの工員たちもいて一緒に遊んでもらったものです。海抜ゼロメートル地帯である葛飾区では、当時洪水が年中行事でね。ある時、工員たちが筏を組み、大水に浮かべて近所を回るというので僕も乗っけてもらったんです。で、筏の上から大水に向けて小便したり……そんなくだらない記憶がある(笑)。世の中全体が貧しい時代だったけれど、面白かった。やんちゃでしたし。
ところが小学校4年生の時、医者に心悸亢進だと診断されて、体育の授業は1年間ずっと見学。今でいう不整脈のようなもので、結局何でもなかったんですが、おかげで運動とは縁遠くなってしまった。本を読んだり、学級新聞をつくったりするのが好きでしたね。ガリ版の時代です。鉄筆でカリカリ書いて。連載小説みたいなものも書いていました。そんなことばかりしていたから、わりに教育熱心だった祖母には「小説やマンガばっかり読んで!」と、よく怒られたものです。
ほかにも切手収集や、絵を描けばコンクールに入選するなど、西川の少年時代の思い出は豊かだ。勉強は特段しなかったが、成績優秀だったのだろう、5年の時の担任の先生に勧められたのが、開成中学校の受験。当時も難関校である。西川自身に予備知識はなかったが、「まぁやってみるか」と受験したところ、めでたく合格となった。
東京の端っこからのこのこ出て行って、開成にはかろうじて引っかかったという感じですよ。だから中学生になってからは、勉強のプレッシャーが強くなってきました。男ばっかりだから、運動会なんかはすごく盛り上がるし、授業中バカ騒ぎもするし、見た目に競争ムードはないのですが、さすがに中学生後半から高校2年ぐらいにかけては、それなりに勉強しました。ガクンと視力が落ちた覚えがあるから(笑)。小説好きはさらに度が上がって、三島由紀夫やスタンダールなどを読みまくっていました。勉強以外のこととなると、僕には読書が一番でしたから。
周囲の多くがそうであるように、僕も東大に進もうと考えていて、文学部志望だったんですよ。ところが、担任が「何を言ってるんだ。もったいない」と言う。価値観の問題なんでしょうけど、多分、社会に出てから“つぶしがきく”みたいなことかな。そう言われると、小説が好きなだけで、文学部志望に確たる信念がないことに気付いて、変更することにしたのです。そうなると、法学部か経済学部。僕は役人になる気はなかったし、数学も好きだったから、経済にしておくか、と。何だか、いい加減な感じですよね(笑)。
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企業会計基準委員会(ASBJ)委員長西川 郁生
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