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「魅せられたベトナムで起業し、"シェアナンバーワン"に!公認会計士の資格取得が、それを可能にした」
I-GLOCALグループ 代表
蕪木 優典

会計士の肖像
I-GLOCALグループ 代表
蕪木 優典
力強い経済成長を維持し、安価な労働力の供給地から有望な市場へと、変貌を遂げつつあるベトナム。蕪木優典がその地に日系初の会計事務所(現IGLOCALグループ)を立ち上げたのは、2003年のことだ。ハノイの雑居ビルからスタートした事業は、今や1000社を超える進出日本企業の顧客を抱え、日系ビジネスに関しては、ビッグ4と肩を並べる規模になった。振り返れば、誰も行こうとはしなかった場所に足を踏み出したからこそ、今日はある。若き会計士を衝き動かしたものは、何だったのだろうか。
1972年、千葉県の柏市の生まれです。父親は東京大学法学部を出ていたのですが、無類の酒好きが高じて、ニッカウヰスキーに就職したという〝変わり種〟でした。僕が幼稚園の時には、家族を伴って2年間アメリカに赴任。うらやましいことに、「世界の好きなところで酒を飲んで来い」という〝研修〟だったそうです。
帰国して入学した地元の小学校では、問題児でしたね、僕は。集団行動が苦手というか、とにかくみんなと同じことがやりたくないのです。〝多様性〟が一定評価される今と違い、周囲の目は冷ややかそのもの。そんな子供でも将来のことは漠然と考えていて、すごく心に残ったのが、会社を経営していた祖母の言葉。「先生には学はあるけれど金がない。社長は金持ちでも学がない。優典は先生とも、社長とも呼ばれる人になりなさい」って。なるほどな、と。
母親は教育熱心で、小3からは完全に受験モード。毎日食事と風呂以外は、塾の勉強です。だから、中高一貫の開成学園に受かった時には、地獄のような勉強から解放される、と心底嬉しかったことを覚えています。開成の校風は、いたって自由で水が合いました。中学の終わり頃からは、もてたい一心で友達とバンドを組んだりして。
一方、勉強はやっているふりをしているだけで、成績はビリに近い状況でした。さすがに高2くらいになると、このままだと母親も悲しむな、と。それで、比較的得意だった数学と英語で受験できる慶應大の経済学部にターゲットを絞り、受験勉強を始めたのです。
合否のカギを握る英語を克服するために蕪木のとった戦術は、「中1の教科書から地道にやり直す」だった。これが当たり、英語力は面白いようにアップ。教師に、「もし慶應に受かったら、開成の進路指導基準を書き換える必要がある」とまで言われた前評判を覆し、見事に現役合格を果たす。そんな経緯で大学生となった蕪木だったが、「1年くらいは遊んでもいいや」という感覚で、勉強といえば、受験で開眼した英語くらい。そんな日々のなか、心に蘇ってきたのが、小学校の時に刻まれた祖母の言葉だったという。
あらためて自身を見つめ直して出した結論は、「公認会計士になる」でした。会計士の仕事がどういうものなのか十分理解していたわけではないのですが、自分が会社員に向いていないのは自覚していたし、医者や弁護士は難しい。士業なら〝先生〟だし、普通の〝社長〟くらいは稼げるだろう、と(笑)。
ところが、いざ予備校に通って勉強を始めてみたら、どうにもつまらない。何回かやめようと思いましたが、親に授業料を出してもらっている手前もあるし、なんとか2年時に日商簿記の3級と2級、4年時には1級を取得。当時は、とにかく資格を取って、その先はまた考えよう、くらいの気持ちでしたね。大学卒業後は、早稲田の大学院会計研究科に進学し、そこで会計士試験の突破を目指すことにしました。
実は、僕が初めてベトナムに行ったのは、大学院時代だったんですよ。医師だった叔父の梶原優が、将来の日本の看護師不足を見越してベトナムの若い世代に日本語を教え、ゆくゆくは来日して医療現場に立ってもらおう、という国家プロジェクトにかかわっていて、たびたび渡航していた。で、「面白いところだから、お前も来い」と、鞄持ちみたいなかたちで誘われて。
30年前のベトナムは、今では想像できないほど貧しかったのですが、同時に日本では感じることのない活気に満ちていました。一瞬で魅入られてしまい、大学院を休学して通い詰めたほど。今のビジネスの原点がその体験にあるのは、言うまでもありません。
それにしても、叔父は私をとてもかわいがってくれ、ベトナムでも方々に連れて行ってくれましたし、いろんな人たちに引き合わせてくれました。叔父がいなければ今の私も、I‐GLOCALも存在しなかったでしょうから、本当に感謝してもしきれませんね。
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