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「変革の時代だからこそ、監査人としての気概、泥臭さみたいなものは、改めて重要だと思う」
公認会計士浜田康事務所
浜田 康
会計士の肖像
有限責任 あずさ監査法人
パートナー山田 辰己
大学在学中に公認会計士試験(旧二次)に合格した山田辰己は、大手商社を皮切りにキャリアを重ねてきた。転機を得たのは30代後半。現在のASBJ(企業会計基準委員会)の〝基〞となった財団法人企業財務制度研究会に出向したのを機に、会計の最先端に触れ、会計基準設定の経緯などを理解する面白さを知った山田は、ここで「好きなものを見つけた」。以降、監査法人のパートナーやIASB(国際会計基準審議会)の初代ボードメンバーとして活躍、〝IFRSづくり〞とその正しい普及に尽力してきた。様々な会計基準が国際的に大きく動いた時代を直に知る者として、山田は今も「会計の本質」を追究すると共に、後進の育成にも全力を傾けている。
実家が北海道の旭川市で縫製工場を営んでいたので、事業というものには早くから触れていました。夜遅くまで仕事をしている両親の姿を見ながら、子供心にも商売は大変だなと感じていましたね。僕は長男だから、後継ぎとして期待されていたかもしれませんが、そういう話が出たことはなく、自由にさせてくれました。もともと自立心が強かったのか、中学を卒業したら「狭い旭川を出て自分の力を試してみたい」と思っていたんですよ。それで〝外〞の高校を受験し、最終的には寮のある函館ラ・サール高校を進学先に選んだのです。
寮生と寝起きを共にする生活は楽しかったし、何より私立ゆえの自由な教育がよかった。例えば国語の先生は、ほとんど教科書を使わずに詩や文学に特化した別の教材で教えてくれたし、また、石川啄木に直接学んだという漢文の先生もいて、啄木の話をたくさん聞いたのも印象に残っています。
あと、クラブ活動は器械体操に参加。単に、中学生の時に倒立ができたというだけで始めたので、試合成績は全然ダメでしたが、一応、当時は逆三角形の体形でした。男子校ですから、試合で男女一緒になると、女子の平均台の前に男子が集まって大変だったという可愛い話もあります(笑)。さほどの悪さもせず、僕は素直に高校時代を楽しんだように思います。
大学進学に向けて理系を目指した時期もあるが、やはり家業に影響を受けていたのだろう、山田は最終的に「商売に絡むものがいい」と商学部を選択する。そして胸にあったのは、「日本の中心に出てみたい」という東京への強い憧れだ。慶應義塾大学商学部に合格して願いを叶えた山田は、新たな生活の一歩を踏み出した。
ところが、早々と五月病になりまして。一部の軟派なムードが僕には合わないと感じたのです。一方、入学当初はまさに学園紛争の最中で、大学に行っても授業がありませんでした。「このままでいいのか」と思う時期が続き、その頃、商学部で何かやれるとしたら、公認会計士の資格を取ることだと考えたわけです。
勉強を始めたのは2年からで、翌年、二次試験にチャレンジしたものの、当然受からず……。歯が立たないとわかってからは本腰を入れて、大学はゼミだけ、あとは受験校に通うというダブルスクール状態で勉強しました。4年の時、2回目の挑戦で合格できたのはラッキーだったと思います。
大学時代で強く印象に残っているのは、何といってもゼミの會田義雄先生との出会いです。先生は会計学者ですが、理論研究だけでなく、むしろ実務のほうに意を用いられる方でした。学者としてのスタートは遅かったのですが、企業や世の中に会計の考え方を正しく伝えることを重視されていました。今思えば、僕の原点になったというか、大いなる薫陶を受けましたね。
卒業後どうするか――実は3つの選択肢があったのです。会計士試験に受かっていたので、一つは順当に監査法人に入る道。あと、會田先生の影響で学者になりたい気持ちもあったので、大学院を受験して受かってはいました。そして3つ目が、内定をもらっていた住友商事への入社。これは偶然で、商社志望の友人に付き合って面接に行ったら、たまたま入社が決まったという流れです(笑)。
僕としては、できれば大学院に進みたかったのですが、肝心の會田先生が留学をされるので、直接教わることができない。それで住商に入社したのですが、結局17年以上もお世話になりましたから、人生わからないものです。
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有限責任 あずさ監査法人パートナー山田 辰己
日本公認会計士協会理事/大蔵省企業会計審議会幹事/金融庁企業会計審議会臨時委員/税制調査会委員 ほか多数