会計士の肖像
プライスウォーターハウスクーパース株式会社
代表取締役社長内田 士郎
「世界に羽ばたくビジネスマンになって、社会の役に立つ」。子供の頃から海外に強く憧れていた内田士郎は、若き日の日記にこう記している。会計士としてのキャリアスタートは1980年。ピートマーウィックミッチェルを入り口に30年余り、ずっと外資畑でステージの変遷を重ねてきた。その間、一貫して心血を注いできたのは、日本企業のグローバル化支援である。常に掲げた志に立ち、内田は信じる道を突き進んできた。コンサルティングファームとして国内最大規模にあるプライスウォーターハウスクーパースの代表に就く現在も、それは変わらない。日本の国際競争力を高めるべく、プロフェッショナル集団を率いて奔走する正統派のリーダーだ。
わりにダイナミックな家族構成だったんですよ。父は苦労人でまじめな起業家、母はピアノを弾く物静かな人。そして、声楽家だった祖母は大変な社交家で、祖父は典型的な九州男児で酒豪かつ豪放磊落。いわば社会の縮図で、立場やタイプによって、物事のとらえ方に違いがあることを早くから感じ取っていました。家の中にいろんな意見があって、僕はそういう多くの価値観の中でもまれて育ちました。
幼い頃の記憶にあるのは、父の会社がどんどん大きくなっていく様です。というのも、父は僕が生まれる少し前に商社を脱サラし、税理士資格を取って開業したのですが、顧問先を見ているうち、「自分でもできる」と事業を始めたのです。シャッターの製造会社。休日も仕事する父に、よく会社に連れて行かれました。いずれは事業を継がせたかったのでしょう。
でも、僕が中学1年の時に倒産してしまって……。業界2位にまで成長していましたが、上場前に拡大路線をとったことで資金が回らなくなった。いわゆる黒字倒産です。その後、父は税理士に復帰しましたが、何とも浮き沈みの激しい人生ですよね。ただ、父のビジネスマインドみたいなものを、ずっと感じながら育ったのは確かです。
多彩な顔ぶれの家庭環境で、内田は幼い頃から様々な世界をのぞくことができた。そしてもうひとつ、彼に大きく影響を与えた世界がある。海外だ。声楽家としての祖母はウィーンへの留学経験を持ち、祖父はかつて2年ほど、船乗りになって世界中を旅して回ったそうだ。祖父の膝の上で聞く海外の話は、内田の心を躍らせた。
祖父はよく、昔を懐かしんでは旅先での出来事を話してくれました。華やかでカッコよくてね。リバプール、マルセイユなど、ヨーロッパの港町の名前を聞くだけでワクワク気分でした。強い憧憬と共に、海外は僕の中に空気のように入り込んでいたのです。いつの日か海外で働きたい。将来は外交官になりたい。そう思っていました。
様々なことを見聞きする中で、僕は大人びたところもあったし、小・中学時代はずっと世話焼きのガキ大将。学級委員や生徒会もやり、学芸会では主役を演じる、そういうタイプでした。でも実は、小・中共に受験をしているのですが、これは落ち続け……。ささやかな挫折(笑)。高校の時に、受験した学校すべてに受かってリベンジを果たしたんですけど、母が「もう受験はさせたくない」と言うので、早稲田大学高等学院に進学したのです。
そのおかげで学院の3年間、そのまま進学した大学の4年間、特別な苦労をすることなく卒業できました(笑)。学院時代は最高に楽しかった。男だけだからバンカラで。2時間目が終わると食堂にダッシュして、お昼に向けて用意してある定食サンプルを「誰が一番先に食べるか」競ったり、授業を抜ける時は、机ごと隠して欠席をごまかしたり(笑)。そんないたずらばかりしていました。
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プライスウォーターハウスクーパース株式会社代表取締役社長内田 士郎