熱き会計人の転機
株式会社グラフィコ
管理部長 公認会計士阿曾 友淳
公認会計士を目指そうと思ったきっかけを教えてください。
阿曾私が会計の勉強を始めたのは、社会人になってからです。大学を卒業後は、生命保険会社に就職しました。転機が訪れたのは28歳。ふと、「このまま会社員を続けていたら、会社の看板がないと通用しない人間になってしまうのでは」という危機感に襲われたのです。そして、職種の異なる友人たちと集まり、話していた時に気づきました。「会計の話題はあらゆる業界に共通する。会計の知識があれば、どの業界でもやっていけるのでは。ビジネスの共通言語として、修得してみよう」と。
そして、公認会計士試験の勉強に専念するため退職。1年で受かると思っていたのですが、実際は3年かかりました。その年に子供を授かったのですが、娘が合格届を持って生まれてきたのだと思っています(笑)。
入所した現新日本監査法人では、どんな経験を?
阿曾監査部門に配属されたのですが、初日にクライアントの挨拶回りをした際、現場で遭遇した公開部門の先輩から、「IPO支援の仕事を手伝ってくれないか」と頼まれたのです。様々な仕事を早く経験したいと思っていた私は引き受けることに。日中は監査業務を、平日の夕方以降と土日はIPO支援を手伝う日々が始まりました。
公開部門にいる公認会計士の多くは、いずれ監査法人を辞め、新しい道を拓こうとしている人たち。クライアントを訪問する時も、その訪問でどれだけ知識が吸収できるか、という高い意識をもって臨むのです。そうすると、会計のみならず法律、契約、ビジネスモデルなど、あらゆる困り事に対応しようと努めます。そんな毎日は非常にエキサイティングでした。
その後、どのような経緯で退職を決意したのですか?
阿曾入所から3年後、監査部門で上場会社のインチャージとなるか公開部門へ異動するかの選択を求められ、公開部門への異動を申し出ました。理由は、そちらの仕事のほうが面白かったから。それから約12年、本格的にIPO支援に従事しました。
退職のきっかけは、「パートナーになるか否か」という選択を迫られたこと。当時すでに40歳を超えていたので、パートナーになれば監査法人のなかにある階段を上がり続けることになる。「いや、まだほかにやるべきことがある」と思ったのです。また、その頃、担当していたクライアントが次々に上場していきました。いいタイミングだったのだと思います。
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株式会社グラフィコ管理部長 公認会計士阿曾 友淳
株式会社グラフィコ
私がグラフィコの管理本部長に就任した時、阿曾はまだ当社の社員ではなく、監査法人から監査に来てくれる立場でした。当時、当社の管理部門は少人数で、日々の業務に精一杯。監査対応に関しても、阿曾の指示どおりにしか動けない状況でした。それが、阿曾が入社したことで大きく好転しました。ただ指示に従うというのではなく、みんなで一緒につくりあげていこうという姿勢に変わっていったのです。
また、阿曾は会計のプロとして財務関係の仕事を担当していますが、ほかにも改革プロジェクトを率先して進めたり、営業や商品企画にも興味をもって動いたりしてくれています。その姿勢は期待以上。数字を出すのが目的なのではなく、出てきた数字をどう生かすかが重要であるということを理解してくれています。今後も、IPO実現に向け、勢いをつけていく中核人材の一人として活躍してほしいと思います。