会計士の肖像
長谷川公認会計士事務所 税理士法人総合経営
長谷川 佐喜男
地元・京都市で会計士事務所を構えたのは32歳の時。以来、人懐っこい性分と人並み外れた行動力を武器に、長谷川佐喜男は“経営者”としていかんなく力を発揮してきた。現在は「税理士法人総合経営」を核に、公認会計士事務所、M&Aや経営コンサルティング会社など、7組織で形成される総合経営グループの代表職にある。また、日本公認会計士協会京滋会の会長も歴任し、長年にわたる会計士事業への功績から、2013年には黄綬褒章を受章。と、紹介すれば歴たる役が並ぶが、当の長谷川はいたって気さくで、昔も今も変わらないモットーは「日本一友だちの多い公認会計士」だ。この言葉には、人生の豊かさというものが集約されているように映る。
子供の頃から跳ねっ返りですよ。スポーツは観るのもやるのも好きで、中学時代は野球部に入っていました。さほどの選手ではなかったけれど、マウンド度胸は誰にも負けなかった。その度胸の強さからか、暴れん坊集団のラグビー部からも誘いを受けたりね。また、うちの別棟をボクシングジム(平安ボクシング)に貸していたものだから、そこに出入りするうち、選手たちからも可愛がられて。ボクシングはやりませんでしたが、気分的には盛り上がっていました(笑)。
やんちゃな部分と真面目な部分が同居する感じで、勉強のほうも、好きな科目である数学と英語はかなり頑張りました。いずれも校内でトップの成績を取りましたから。それと、そろばんが好きで、中3の時には日商珠算検定1級を持っていたんです。もっと上を目指そうと、そろばん塾には高校に進んでからも通っていたのですが、2年の時、ここで初めて公認会計士という職業を知ったのです。
教えてくれたのは塾の先生。「公認会計士というのは、資本主義の中枢で日本経済を動かすくらいの仕事をするんだよ」と。父が運送業を営んでいたので、税理士の存在は何となく知っていたけれど、先生のこの言葉は胸に刺さりました。さらに『螢雪時代』を見てみると、「頑張れば月収100万円も可能」なんて書いてある。もう50年近くも前の話です。その頃の初任給って10万円にも満たなかった時代なので、大変な数字じゃないですか。社会的な役割が大きく、なおかつ稼ぎもいい。心をつかまれた僕は、公認会計士を目指すと進路を定めたわけです。
公認会計士試験の合格者が多い大学に的を絞り、長谷川は受験に臨んだ。東京への憧れもあり、一番のお目当ては早稲田大学だったが、結果は叶わず。東京での浪人生活を経て、翌年に入学したのは関西学院大学商学部。同大学もまた、関西では多くの会計士を輩出しており、そこは初志貫徹である。が、長谷川の大学生活は旅行三昧だったそうで、会計士試験に向けてエンジンがかかるのは、まだ少しばかり先の話だ。
関学のキャンパスには上ヶ原牧場といわれる中央芝生があって、解放感いっぱい。勉強する雰囲気が全然ないんですよ(笑)。授業に出るよりも芝生で寝そべっている時間のほうが多く、入学して早々に勉強は挫折。はまったのは旅行です。この頃はユースホステル隆盛の時代でね、北海道や九州など、一人であちこち泊まりながら一周するんです。その土地、土地で新しい出会いがあり、旅行者同士仲良くなって、これが最高に楽しい。牧歌的でいい時代でしたねぇ。ちなみにこれまで、国内でいえば山形県以外はすべて宿泊経験があるし、海外も好きで、今も欠かさず年に数回は出かけています。いわゆる無類の旅行好きというやつです。
でも、4年ともなるとさすがに焦りますよね。大手銀行に就職できる口はあったのですが、そこは商売人の息子、自分が勤め人に向いていないことはわかっていました。かといって、商売を継がせたがっていた親には、高校生の時にきっぱり「いやだ」と断ったし。遅まきながら、ここで会計士を目指すという原点に戻ったのです。財務会計の深津比佐夫先生のゼミに入り、並行して専門学校にも通い、ようやく勉強し始めたのは4年になってからでした。
結局長引いて、第二次試験に合格したのは大学を卒業して4年目の秋。この頃も、試験が終わって発表が出るまでの空白の期間は、旅行しまくっていたんですけどね(笑)。数度受験に失敗し、挫折を味わったのは事実ですが、でも、そのたびにセカンド・エフォートの重要さを認識できたことは大きい。もとはアメフト用語ですけど「簡単にあきらめるな」ということ。いずれの日に、「自分より先に合格した人を追い越す」という負けじ魂が、自然と身についたように思います。
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長谷川公認会計士事務所 税理士法人総合経営長谷川 佐喜男
[主な著書] 『オーナー経営者のためのM&Aガイドブック』(中央経済社)、『ITベンチャー成功のシナリオ』(中央経済社)、『地域金融機関と会計人の連携』(金融財政事情研究会)など多数