- vol.75
-
「変革の時代だからこそ、監査人としての気概、泥臭さみたいなものは、改めて重要だと思う」
公認会計士浜田康事務所
浜田 康
会計士の肖像
日本公認会計士協会
前会長(現相談役)山崎 彰三
山崎彰三は、会計プロフェッションとして、40年以上のキャリアを営々と積み上げてきた。その集大成ともいえる日本公認会計士協会の会長職を、今年7月に終え、長い道のりにやっと一段落ついたところだ。日本で最初に誕生した大型監査法人「等松・青木(当時)」でスタートを切った山崎は、若くして海外赴任を経験し、そして、激動する日本経済をずっと肌身で感じ取ってきた。監査人としてだけではなく、培った豊かな知見をもとに、業界の地位の向上や国際化に尽力してきたその功績は大きい。
生まれ育ったのは、宮城県仙台市。途中、当時国鉄の職員をしていた父の転勤に伴って、福島県の会津若松で暮らした時期もあるのですが、大学を卒業するまで、ずっと仙台です。
末っ子だったので、10歳近く離れた兄貴に比べると、私はずいぶん甘やかされたようです。よく一緒に遊んでいた隣家の子がミッション系の小学校に行くと聞けば、「僕も行きたい」。同様に、その子がやっていたバイオリンに興味を持つと、「習いたい」。当時にすれば、それなりにお金もかかったでしょうに……わがままだったんですよ。バイオリンは、稽古がいやで早々にやめてしまいましたが、ミッションスクールには転勤族の子供が多く、いろんなところから来ていましたから、わりに“開かれた”環境で楽しかったですね。2年生の時から英語の授業もあったし、今思えば、私の素地をつくるうえで影響は大きかったように思います。
中学に進学したのは、会津若松に越してからですが、私は人に影響されやすいのか、今度は同級生が資格を取ろうとしていたアマチュア無線に興味を持ち、一緒にやろうと。中学1年で試験に受かって、世界に一つしかないコールサイン(識別番号)を取得したんですよ。自慢するわけじゃないけれど、時代的にはかなり早かったでしょうね。無線だから世界とつながるでしょ、短波のアンテナを自作して、グアム島やマリアナ諸島などにいる米軍の人たちと、交信を楽しんでいました。この時、ミッションスクールで習った英語が役立ったというわけです。いずれにしても、興味を持ったことは何でもやらせてくれた親には感謝しています。私と違って厳しく育てられた兄貴と比べて、いまだに「彰三は甘やかされた」と親戚に言われますけどね(笑)。
仙台市に戻った山崎は、宮城県有数の進学校、仙台第一高等学校に入学。学業に長けていたのはもちろんだが、好奇心旺盛なのは変わらずで、次に山崎が夢中になったのは写真である。報道写真家に憧れ、漠然とながらも、その道に進みたいと考えた時期もあったそうだ。他方、「経済というものは面白い」と気づき、自分で勉強するようになったのも、この高校生時代である。
当時は高価だったペンタックスを買ってもらい、ひたすら写真を撮っていました。好きだったのは、ロバート・キャパや土門拳が撮るような写真です。自分には、あんな才能がないとわかっていたけれど、この頃は、日大藝術学部の写真学科に行きたいと考えていたんです。さすがに、「お前の腕じゃ食っていけない」と父に反対されて、別の進路を選んだわけですが……。
仙台第一高校からは東北大学に、というのが正道でしたから、私も受験したんですけど、経済学部を選んだのは、ある時、「経済は世の中を動かしている仕組みだ」と気づいて、面白い、勉強したいと思ったからです。法律とは異なり、経済って現実そのものじゃないですか。人によって見方や解釈が違うし、正解がないところに面白さを感じたのです。高校生のうちに、経済に関する本はずいぶん読みました。例えば「日露戦争はなぜ起こったのか」を切り口にした、昔の陸軍大学の教科書の復刻本とか。「そうか、世の中はこんなふうに動いていたんだ」と、日本の国際情勢や経済情勢を読み解くのが面白くて。
親は医学部に行けと言っていたんですが、理科系に行けるほど成績がよくなかったというのもあるんですけどね。余談ながら、大学入試では、うまい具合に日露戦争にまつわる問題が出たんですよ。あれは多分、100点を取れていたと思う(笑)
この記事の続きを閲覧するには、ご登録 [無料] が必要です。
日本公認会計士協会前会長(現相談役)山崎 彰三
[主な主な役職] 元国際会計基準委員会(IASC)理事会メンバー(日本代表)、元国際会計士連盟(IFAC)理事会メンバー(日本代表)、元アジア太平洋会計士連盟(CAPA)会長、企業会計審議会臨時委員(現)、財務会計基準機構評議員(現)ほか多数