熱き会計人の転機
株式会社新生銀行 監査役/株式会社トップス 取締役
公認会計士赤松 育子
公認会計士を目指したきっかけを教えてください。
赤松弁護士だった父からの「女性も手に職を」というアドバイスです。父と同じ弁護士になろうとも考えたのですが、進学した先は経済学部。それなら会計士かなと。大学2年のことです。でも勉強にはなかなか本腰が入りませんでした。大学4年で学生結婚するなど、バブルだったこともあり楽しいことを優先してしまって(笑)。予備校に真剣に通い出したのが23歳、合格まで通算4回受けました。
合格した時に当時の夫に叱られたことを覚えています。女性が働くことにマイナスのイメージを持っている人でしたから。またバブル後の就職難もあり、最初は監査法人の非常勤パートとして働き始めたのです。子供は2人授かりましたが、働きたい気持ちがあっても環境が整わない時代でもありました。子供が大きくなりフルタイムで働けるようになったのは30歳を過ぎてからです。
監査法人時代はどのような仕事をされていましたか?
赤松非常勤の頃から会計監査に携わり、インチャージも経験できました。フルタイムで働き始めてから監査法人を辞めるまでは内部統制に注力。折しもJ-SOXの波がきていた頃です。顧客企業に3年間駐在し、主にIT全般統制についてじっくりと学ぶことができました。その後は内部統制導入のために、顧客および監査法人内の人材育成を担当しました。
家に帰れずホテルに泊まることもある激務の日々でした。育児・家事との両立も大変で、次男が幼稚園の頃は、私と母とシッターさんの3人体制。私が久々にお迎えに行くと「今日は違うママが来た」と子供たちに言われたぐらい(笑)。
でも、本当に仕事が楽しくて仕方なかった。「人より10年遅れた分を取り返さなくちゃ」という焦りもあった。そのせいで、自分の体の悲鳴が聞こえなかったのでしょう。講義中に倒れ、緊急手術。これが私の転機になりました。40歳の誕生日をICUのベッドで迎え、少しだけ頭を動かすと窓越しに東京タワーが見える。そのたもとに当時の職場があったのですが、「私がいなくても仕事は回っている」と実感……違う生き方を目指そうと思ったのはその時です。
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株式会社新生銀行 監査役/株式会社トップス 取締役 公認会計士赤松 育子
赤松さんは本来、物事を深く考える方なのだろうと思います。相手の立ち位置や考えなどを尊重しながらも、重要な決め事を決断する会議などで発言する時は、覚悟と信念を持って言うべきことをはっきり言う。そして、「みんなのためになる」と思うことなら、多少の軋轢を恐れずに周囲を動かしていく行動力もある。同じ会計士として非常に尊敬しています。
彼女は私の大学の後輩でもあり、話を聞くと、病気など様々な苦労を乗り越えながら、自分の在りたい姿を明確にし、成長に役立つ分野をしっかりと見極め、キャリアを着実に積んできたという印象があります。社外役員として4社を選んだのも、これから5年後、10年後に自分がどうなりたいか、という考えがあってのことでしょう。女性に限らず、多くの会計士にとってロールモデルになりえる人であると思います。