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「変革の時代だからこそ、監査人としての気概、泥臭さみたいなものは、改めて重要だと思う」
公認会計士浜田康事務所
浜田 康
会計士の肖像
学校法人 大原学園
学園長中川 和久
各種専門学校と社会人や大学生向けの資格講座を運営する学校法人大原学園は、グループ校も含め全国に115校を置く、この分野で抜きん出た存在だ。その理事長を6年務めた中川和久は、今年4月、新たに学園長に就任した。振り返れば、公認会計士試験合格を目指して学園に通っていた若き日、講師に抜擢されたことで、その人生は大きく転換することになる。ただし、そこに至るまで、そしてそれ以降も、そこには〝順風満帆〟〝予定どおり〟とは言い難い歩みがあった。
1956年、能登半島にある石川県羽咋市の生まれです。家から3分くらいのところに、千里浜という砂浜が広がっていてね。小学生の頃は、登校前にバケツを持たされて、「ハマグリを拾ってこい」と言われたものです。当時は、30分でバケツがいっぱいになるほど獲れました。
父親は土建業を営んでいたのですが、あまり商売が上手なほうではなかったらしく、家は貧乏でしたよ。ただ、母方の実家が農家だったおかげで、お米だけは腹いっぱい食べられて、子供の頃から体格はよかった。で、とてもヤンチャだった(笑)。プロレスごっこで相手にケガをさせてしまったことも、何度かありました。今だったら、大問題になるレベルです。
勉強はできなかったですね。小学校の成績は、いつもビリかブービーです。4年生の時の宿題が私だけ別メニューで、毎日「九九を書いて出すこと」なんですよ。酷さがわかってもらえるでしょう(笑)。
そんな私を見かねて、中学2年の時に、いつも遊んでいた友達が「一緒に宿題をやろう」と声をかけてくれて。今考えても、彼には感謝しかありません。その友達に教わって、初めて「勉強というものは、こうやればいいのか」とわかった。遅すぎる開眼でしたが、問題が解けるようになると、勉強が一気に面白くなりました。成績もみるみるアップして、地元の進学校、石川県立羽咋高校に合格することができたのです。小学校時代の先生が、「え? 中川君が? よく頑張ったね!」と目を丸くしていたのを覚えています。
高校でも、いきなり数学に躓いたものの、今度は同じ学校に通う〝はとこ〟のサポートで乗り切る。こうして中学、高校時代に「学び方を学んだ」ことは、後の職業選択のある意味〝布石〟となったのだが、もちろん当時の中川が知る由もない。当人は、高校1年時のある出来事をきっかけに、卒業後の目標を中央大学法学部進学に定めていた。
ある日、高校の先生が同郷の向江璋悦さんのことを話してくれたのです。私同様、裕福とはいえない家庭に育ち、苦学の末に検察官から弁護士になった方で、中央大学に「真法会」という司法試験受験団体をつくり、後輩を指導しているということでした。真法会は、経済的に恵まれない学生でも司法試験を受験できるよう、授業料などは一切取らないと聞いて、えらく感動してね。ぜひそこに行ってみたいと思って、中央大学の受験を決めました。
ただ、現役では不合格。他に受かっていた大学はあったので、少しだけ迷ったのだけど、一浪を決意し、76年に初志を貫徹することができました。
そういう流れからして、合格したら速やかに真法会の門を叩いて、司法試験の勉強に邁進するはずですよね。実際そうしていたら、人生はまったく別のものになっていたでしょう。でも、真法会に顔を出すことは、結局一度もなかったんですよ。その理由は、都会に出て一人暮らしを始めて、「世の中はお金で回っているんだ」という事実に気づいてしまったからでした。
入学して始めたのが、蕎麦店のバイトです。当時は、近くの会社から「もりそば何十枚」なんていう出前の注文がバンバン入る時代でした。そうやってあちこちの会社に行ってみると、入り口をくぐっただけで、儲かっているのか、そうでないのかがわかるのです。駄目な会社はオフィスが雑然としていて汚い、挨拶しない。この違いは、若造の目にも一目瞭然でした。
そういう現実を目の当たりにして、同じ資格でも、お金にかかわるものを目指すべきではないのか、と。半ば直感と言っていいでしょう。子供の頃からお金に苦労したこと、親戚に税理士がいて、いろいろ話を聞いていたこと。いろんなバックボーンも影響したのだと思います。それで、資格取得のターゲットを、法律家から公認会計士にチェンジすることに決めました。
結局、何のために法学部に来たんだ、という話です(笑)。ただまあ、勉強のことだけを考えるのならば、私の頭はどちらかといえば司法試験のほうが向いていた。今でもそう思うんですよ。
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学校法人 大原学園学園長中川 和久