- vol.75
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「変革の時代だからこそ、監査人としての気概、泥臭さみたいなものは、改めて重要だと思う」
公認会計士浜田康事務所
浜田 康
会計士の肖像
仰星監査法人
理事長南 成人
「最大ではなく、最強」を目指す仰星監査法人は、寡占化の進む本業界において独自の存在感を放っている。理事長として指揮を執る南成人が、前身の東京赤坂監査法人を設立したのは、ちょうど30歳の時。小さな事務所で被監査会社1社からスタートした同法人は、幾度の合併を経て、そして創造的な活動を貫くことによって、確実な成長を遂げてきた。もとより独立心が強く、リーダーシップにも長けた南は、とにかくアクティブだ。その動きは組織内にとどまらず、後進の教育、業務のメソドロジー開発や書籍・テキストの執筆、協会活動など多岐におよぶ。「こんなにいい仕事はない」と断言する南の胸には、プロフェッショナルとしての誇りと夢が刻まれている。
いわゆるガキ大将で正義感が強く、いじめられている子がいると守ってやりたくて、よくケンカしたものです。生まれ育った大阪の池田市は山も川もある自然豊かなところで、遊びにも事欠きませんでした。昆虫を捕まえたり、仲間と秘密基地をつくったり、川では存分に泳ぎ……要は遊び全開。じっと机に座っていられないから、勉強は全然しなかった。とにかく体を動かすのが好きなんです。小学生の時に始めた日本拳法は大学まで続けましたし、あとはサッカーやローラースケートなんかも。いつもフルに動いているものだから、周りからは「マグロみたい」とよく言われました。泳ぎ続けていないと死んでしまうという、あれです(笑)。
父が設備関係の会社を経営していたこともあり、自分も漠然とながらも一国一城の主になりたいと思っていたのですが、それが「何か資格を取って」という考えに至ったのにはきっかけがあります。僕が10歳の時、オイルショックの余波を受け、父が人にだまされた格好で事業に失敗したんですよ。一時は引っ越しを余儀なくされ、小学校から帰ると借金取りが来ているとか、そういった場面はやはり大きな出来事として僕の中に残った。だから、人にだまされないよう、失敗しないよう、必要な知識を得て身を立てなければと考えるようになったのです。
ちなみに、父の事業はほどなくして復興し、今は弟が継いでいます。その過程で見てきたのは、親が寝ずに働く姿や、何があってもあきらめない姿勢。そういう根性というか、ネバーギブアップの精神に影響を受けたのは確かで、現在につながる僕の“芯”が培われたように思います。そんな自分を認めてくれた中学時代の恩師、渡邉幸子先生の存在も大きかったです。
資格取得は意識しつつも、中・高校時代は変わらず遊びやスポーツに忙しく、ほとんど勉強していなかったという南だが、一貫して得意だったのは数学である。「公式を理解して、あとは解くだけ」という明快さも性に合っていた。大学受験においては、入試科目に数学がある文系学科を選択し、「数学の点数のおかげでなんとか滑り込んだ」。立命館大学経済学部に進学した南は、京都で新しい生活を始めた。
友達がたくさんいたから、皆で旅行したり、下宿に集まって飲んだくれたりと、実家を出て青春謳歌です。嵐山の北のほうにある三寳寺に下宿していたんですけど、ここは、家を出ることに反対していた親が唯一許してくれた下宿先。立命館には近いものの、かなり山奥にあるお寺で毎朝5時から木魚の音を聞くとか、五右衛門風呂に入るといった生活は、今となれば貴重な体験かもしれない(笑)。ほかの大学の下宿生たちもいて、皆で一緒にバカやりながらの面白い日々でしたね。
資格のことは頭にあったので、友人(瀧上博視氏)の誘いに乗り、1年の時から大学の税務経理研究会に所属していました。簿記3級、2級を受験できるよう指導してもらうなか、僕は数字が得意だから、わりにパパッと合格。本格的に公認会計士試験を目指し、専門学校とのダブルスクール態勢に入ったのは3年になってから。梅田のTACに通うために実家へ戻り、以降は死ぬほど勉強しました。ギアを切り換え、遊びもスポーツも、いったん全部棚上げです。全国模試ではかなりいい成績を取っていたのですが、合格したのは、大学を卒業した翌年。いずれにしても、負けるのが嫌い、やり始めたらとことんやるという性分は、会計士試験においても生きたと思います。
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仰星監査法人理事長南 成人
その他役職
・ 一般財団法人会計研修機構 理事
・ 株式会社ファンペップ 監査役
vol.62の目次一覧 |
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