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「変革の時代だからこそ、監査人としての気概、泥臭さみたいなものは、改めて重要だと思う」
公認会計士浜田康事務所
浜田 康
会計士の肖像
みらいコンサルティング株式会社
代表取締役(グループ代表)久保 光雄
30年以上にわたり、久保光雄が率いてきた「みらいコンサルティング」は、企業経営のパートナーとして業界屈指の存在感を放っている。最大の特徴は会計士、税理士、社会保険労務士などのチームワークによる「全体最適」の追求と、徹底した「実行支援型」コンサルティングにある。事業再生、M&A、事業承継、国際ビジネスなど、その支援領域は幅広く、クライアントの困り事や課題解決にはとことん長く寄り添う。時に試練にさらされながらも、同社が確かな成長を遂げた背景には、時代変化に惑わされない芯がある。久保が最も大切にしている社会的使命感だ。自社の規模拡大や利益を優先せず、日本経済を支える数多くの中堅・中小企業の未来に貢献することを第一義とする、まさに〝先義後利〞の精神。久保の軌跡には、私心なき事業の意義と強さが刻まれている。
生まれ故郷は、かつて炭鉱のまちとして栄えた福岡県の大牟田市。僕が育ったのは、戦後日本における最大の労働争議、三井三池闘争が起きた時代で、まちはすさまじく荒れていました。大牟田の駅に降り立てば労働歌がバンバン耳に入ってきて、デモ隊が列をなしている。刃傷沙汰もあったし、学校でも校内暴力が絶えませんでした。記憶に残っているのは労働争議のことばかりですよ。鉱山の仕事にかかわっていた親父が転職し、中学2年で大分市に移った時はほっとしたものです。
団塊の世代のど真ん中ですから、中学校では1学年18クラス、しかも1クラス60人超という〝人口密度〞で、机なんかぎゅうぎゅう詰め。何かと窮屈だし、競争も激しかったけれど、僕は昔から勉強が好きでした。学習塾などありませんでしたが、自分で学ぶのが楽しかったし、なかでも英語が大好きで。でも田舎ですしね、卒業生の半分近くは集団就職で大阪に出るような貧しい時代です。そんな環境で、僕が進学校である舞鶴高校に入学したのは、担任に勧められたから。大分県の一斉模試で高い成績を取ったものだから、「お前は行け」と。結果、いろんな仲間も得られて、充実した高校生活を送ることができました。
ただ、進学校ゆえに勉強、勉強と言われ続け、正月も休みなし。毎月実施される実力テストの成績順で席が決まるという、今だったら問題になるような〝えげつなさ〞でした。僕はイヤにはならなかったけれど、将来に対する夢とかはあまり持てなかったですね。
8人きょうだいで暮らし向きも大変だったから「就職か進学か」は悩みどころだった。浮上したのは〝無償の大学〞で、久保は、かつて存在した国鉄の教育施設「中央鉄道学園」に進む。三十数倍の競争率を突破してのことだ。
最低限の給料をもらいながら、3年間で大学課程を学べるんです。高校の担任からは「普通の大学に行け」と反対されましたが、弟を育てるためにも早く稼がなきゃという思いが強かったのです。学園は新高卒組と国鉄部内の混成クラスになっていて、〝大人〞たちもいたから面白かったですよ。朝から晩まで勉強漬けで休みはなかったけれど、寮生活を共にした仲間とは酒を酌み交わし、議論を交わし、本当に楽しい日々でした。今でも仕事を離れた深い付き合いが続いています。
学園時代には自治会の副会長として積極的な活動もしていました。その一つが内部向けの新聞発行なんですけど、ある時、僕の投稿が物議を醸しまして。当時行われていた上級、中級といった、いわゆる階級別採用を廃止すべきだという趣旨の投稿文を出したんです。あの頃『白い巨塔』がはやっていたから、乗じてタイトルは『鉄の巨塔』(笑)。「過激だ」と怒られた、怒られた。子供の頃に労働争議を目の当たりにし、親父も社会正義を志向していたので、やはり影響は受けたのでしょう。おかしい、間違っていると思うと黙っていられない性分なんですよ。最後は学長も「若い人がそう思うのはもっともだ」と。この一件は騒動になったけれど、こんな外れた声でも飲み込んでくれる度量があったのは確かで、僕は「鉄道で生きていこう」と決意を固めました。
ですが……3年間の学園と実習を終えて就いた仕事が不満だった。関東地方資材部へ配属となり、本部で資材の購買を担当していたんですけど、これがラクで。当時の国鉄は何しろ人が多いから、仕事がすぐに終わっちゃう。これも違うなぁと。時間はありますからね、「何かほかのことを」と考え、まずは国鉄の国内研究員制度に応募、一橋大学の岡本清教授の研究室に行かせてもらうことになりました。当時の上司が一橋の出身で「いいぞ」と勧めてくれたんですよ。
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みらいコンサルティング株式会社代表取締役(グループ代表)久保 光雄