The CFO –ニッポンの最高財務責任者たち-
株式会社アスカネット
常務取締役 CFO功野 顕也
ニッポンのCFOの人物像を紹介する本連載の16人目に登場願うのは、アスカネットの功野顕也氏。東京で監査法人に就職するも故郷の広島に戻り、1年半後にベンチャー企業に転職、IPOを成功に導く。以来およそ10年、「情が移った」会社で、いまや新規事業開発の責任者まで務める功野氏のキャリアストーリーを聞いた。
功野氏の実家は、広島駅にほど近い街中にある。元会社員だった父親は、功野氏が生まれてすぐに会社を辞め、自営で不動産関連の仕事を始める。
「俺とは違って、安定した仕事に就け、と口癖のように言ってましたね。高校時代に公認会計士という仕事を初めて知ったのも、父の“アドバイス”からです。資格を取るのは大変だが、一生食うのに困らない、と(笑)。その時は、へぇと思った程度でしたけど」
高校卒業後、東京大学に入学。しかし誰もが憧れるキャンパスは、期待と違い「つまらなかった」という。
「田舎者なので、周囲と合わないわけです。同じような境遇の人間たちと夜な夜な麻雀、みたいな生活をしていたら、あっという間に1年が経ってしまいました。さすがにこのままじゃまずいと思い始めた時にふと浮かんだのが、公認会計士のこと。もともと数字は嫌いではないし、チャレンジしてみようか、と。もし充実した学生生活を送れていたら、普通にどこかの大企業にでも就職していたでしょうね」
こうして、2年になると専門学校に通い、本格的な勉強を始めたが、「自他ともに認める要領のよさ」も奏功して、翌年秋には見事二次試験に合格を果たす。1991年、日本経済はまだバブルの坂を下り始めたところだった。
「監査法人は、内定を出した学生を抱え込む時代。合格したら卒業するまでパートで働くのが普通でした。でも私は、2年間はモラトリアムでとバイトに明け暮れ、卒業してから半年ほどアメリカに“遊学”したのです」
ところが海外経験を満喫して帰国すると、状況は一変していた。
「93年の秋、『じゃあ入所しますので、お願いします』という段になったら、『君は今頃何を言ってるの?』と(笑)。バブル崩壊の厳しさから、なんと内定は取り消されていました」
結果的には入所試験を受け直し、正式に採用通知を受け取り、事なきを得る。そんな経緯で入った監査法人だったが、仕事にはやりがいを感じた。
「経理責任者の方と監査法人のパートナーの会話を聞くことが楽しかったですね。その場の話ひとつで、いろんなことが決まっていく。“事業の匂い”がプンプンするわけです。早くあんなふうになりたい、と心底思いました」
2年目からはメガバンクを、その後はIPO準備企業などを担当し、着実に会計士としての経験値を高めていく。ただ、仕事の楽しさとは別の気持ちを、徐々に抑えられなくなってもいた。
「東京の喧騒、特に満員電車がだるいわ、と(笑)。広島に戻ることを真剣に考えるようになりました」
転勤を願い出たものの空きはなく、別の大手監査法人の広島事務所に転職したのは97年、26歳の時だった。
この記事の続きを閲覧するには、ご登録 [無料] が必要です。
株式会社アスカネット常務取締役 CFO功野 顕也
vol.24の目次一覧 |
---|