- vol.75
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「変革の時代だからこそ、監査人としての気概、泥臭さみたいなものは、改めて重要だと思う」
公認会計士浜田康事務所
浜田 康
会計士の肖像
東京共同会計事務所
代表パートナー内山 隆太郎
「不本意な会社員人生を、息子に繰り返させたくはない」。そう願った父の言葉に導かれ、内山隆太郎は、高校時代に会計士資格の取得に向けた勉強を始める。そのおよそ10年後、ほかのパートナーとともに独立し、開設した東京共同会計事務所は、今や160名のメンバーを抱え、海外の専門誌から日本におけるベスト・アドバイザーの一つとしてお墨付きを得る存在だ。成長のエンジンになったのが、資産証券化ビジネスに欠かせないSPC(特別目的会社)の管理業務である。1990年代半ば、先の見えない市場に見切りをつけた証券会社・投資銀行があらかた撤退・縮小を余儀なくされるなかでも、「好きだから」という理由で細々ながらそれを請け負い続けた内山は、やがて訪れたブームで〝先発優位〞のメリットを存分に享受する。しかし、今日の成功に至る道に壁が立ちはだかったのは、実はそこからだった。
幼稚園に入って初めての集団生活を経験するわけですが、私はもともと〝超〞がつくほどの内向的な人間で、2週間ぐらい「行きたくない」と泣いていたみたいですね。ちなみに、その頃の夢は〝会社員〞。夢にしてはずいぶん現実的ですけど(笑)、どうも父親のワイシャツ姿に憧れたようなのです。
ところが、当の父はまったく違うことを考えていました。けっこう波乱に満ちた仕事人生を送っていて、最初に入社した大企業を「大きすぎる」と、当時にしては珍しく1年で辞めたのです。で、小さな商社に入り直したわけですが、そこが中堅商社に吸収合併され、さらにその会社も大手総合商社と合併。自らの意志とはかかわりなく、また大会社の一員になってしまった。
まあ、傍流の傍流みたいなものですから、思いどおりにいかないことも多かったのでしょう。息子にその轍を踏ませたくないと考えたのか、高校生くらいになると、しきりに「何か手に職をつけておけ」と言うわけです。そしてある日、いろんな資格のパンフレットを集めてきたんですね。父の言うことは一理あったし、どうしようかと眺めていて、なんとなく手に取ったのが会計士でした。公認会計士になりたいとかいうのではなく、会社員になるにしても資格という保険をかけておいて損はないな、という感覚でしたね。
とりあえず始めた簿記の勉強で、「苦手ではない」という感触を得た内山は、高校在学中に日商簿記検定の2級までを取得する。中学時代からずっと打ち込んできたテニスの部活をやめて、試験勉強に本格的に取り組み始めたのは、大学2年の時だった。
私は小学校から慶應義塾に入り、そのまま大学までエスカレーター式に進みました。テニス部に入ったのは中学の時で、高校では本格的に部活で汗を流しました。けっこう真面目にやっていたんですよ。でも、うだつが上がらない。下手なりに策を弄せばいいのに、「きれいなテニス」ばっかりやっていて(笑)。大学2年になった時、このまま惰性で続けているのもどうかという思いにとらわれるようになって、夏の関東学生予選会を区切りに、すっぱりと退部しました。
実はその少し前から、週2で夜だけ会計の専門学校に通っていたのですが、そこからは資格取得一筋です。テニスをやめたことだし、大学時代に何か一つかたちにしなければ、という強い思いに駆られていましたね。
今から考えても、それはもうストイックに勉強しました。ずっと〝エスカレーター〞だったので、受験勉強のやり方自体よくわからないような人間でしたけど、逆にだからこそ無茶できたのかもしれません。多い時には、平気で1日14時間くらい机に向かっていましたよ。その甲斐あって、3年生の時に、当時の公認会計士第二次試験に一発合格することができました。
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東京共同会計事務所代表パートナー内山 隆太郎