会計士の肖像
国際会計士連盟(IFAC)
理事觀 恒平
「相手の国や人を理解し、そして好きになること」。2020年から国際会計士連盟(IFAC)のボードメンバーを務める觀恒平は、グローバルで働く〝極意〟を端的に語る。若い世代が、ともすれば海外に出るのを躊躇する傾向があるのは、会計士業界も例外ではない。「その壁を越えてチャレンジすれば、必ず自らの糧になる」と話す觀の国際感覚は、若き日にインドを放浪し、外資系監査法人でヨーロッパ、アメリカに赴任して直面した数々の経験に磨かれたものだった。
1960年に福井市で生まれました。実家は、通っていた小学校のすぐ近くにあって、その学校の裏手が100mくらいの山になっていてね。子供の頃は、よくそこで遊んでいました。とにかく〝田舎〟で、夜、小川に餌を仕掛けておくと、翌朝フナのような小魚がたくさん獲れたり、秋になると赤とんぼの群れが飛び交ったり。そんな環境で育ちました。
当時の男子小学生のなりたい職業といえば、野球選手。高学年になると、昼間は野球をやり、夜はプロ野球中継を観て寝る、というのが日課のようなものでした。でも、冬は雪が降って外で遊べないので、もっぱら卓球をやっていました。その流れで、中学では卓球部に。そんなに強い学校ではなかったけれど、新しくできた友達と毎日汗を流すのは、楽しかったですね。
高校に進学すると、同級生に中学時代の県大会で活躍していた他校の選手が、何人かいました。彼らがやるというので、「じゃあ」という感じで、高校でも卓球を続けることにしたのです。
入学した県立藤島高校は、福井ではトップクラスの進学校でした。でも、私自身は、勉強が大好きというタイプではなかった。特に歴史や地理など、「とにかく暗記」というのが苦手で。どちらかというと理系かな、と3年の時の進路選択ではそちらを選びましたが、それも、「文系を選ぶと理系にチェンジするのは難しい」と先生に言われたから。大学で何を学んで、将来どうしたい、みたいなビジョンは、まったくありませんでした。ちなみに公認会計士なんて、名前も知らなかった(笑)。
当時、国立大学の入試は一期校と二期校に分かれていて、両方を受けることができました。それで、一期校は理系、受からなかったら二期校は文系、と決めて受験したんですよ。
そうした経緯で、78年、觀は横浜国立大学経営学部に入学する。経営学部を選んだのには、文系の中でも、得意な数学が生かせる学部なのではないか、という理由があった。しかし、初めて会計の授業を受けた感想は、「なんで〝帳面つけ〟みたいな簿記をやらなければならないのか……」。意欲を失った觀は、同級生に〝代返〟を頼んで授業をサボタージュし、住んでいた下宿から夜な夜な友人と飲みに出かける生活に。ただ、さすがに「このままでいいのか」と思い始めたところに、転機は意外なかたちで訪れる。
夏休みに実家に帰った時に、自動車免許を取ろうと教習所に通ったのです。そこで、学年が1つか2つ上の早稲田大学の学生とよく顔を合わせるようになって、その人が「僕は会計の勉強をしているんだ」と言うわけです。その話を聞いているうちに、大学の授業とはずいぶん違うな、と興味がわいてきて。1回やってみようか、くらいの気持ちで、会計士試験の専門学校に通ってみることにしました。
その学校は信濃町にありまして、学院長という40歳くらいの人が、竹刀片手に、いきなり「お前らみたいに大学に行って、のほほんとしているやつらは、ダメなんだ」と(笑)。言うことは過激でしたが、けっこう面白い人で、食指の動かない簿記も「騙されたと思って、やってみろ」と。毎日、わら半紙に記帳させて、「左右の数字は合ってるか?」の繰り返し。「合うに決まってるじゃないですか」と言うと、すごく怒って、「それを肌で感じるようになるのが大事なんだ」って。でも、そこで経済学や商法なども学んでいるうちに、「頑張って会計士の資格を取ろう」という気持ちになっていきました。勉強が面白くなったのと同時に、考えてみると、大学を卒業して一般の企業に就職する、というのがぜんぜんピンとこなかったのです。
この記事の続きを閲覧するには、ご登録 [無料] が必要です。
国際会計士連盟(IFAC)理事觀 恒平
vol.76の目次一覧 |
---|