
会計士の肖像
税理士法人 峯岸パートナーズ
代表社員峯岸 芳幸

公認会計士・税理士としての道のりは、実に50年近くになる。監査法人でキャリアをスタートさせた峯岸芳幸は、28歳の時に自らの事務所を開設。以降、クライアントの業種・規模を問わず多様な業務に取り組み、実績を重ねてきた。そして、40代後半からは会務にも尽力。日本公認会計士協会東京会練馬会の会長に就任したのを皮切りに、東京会会長、協会本部副会長などを歴任し、業界や地域に大きく貢献した。何より大切にしているのは〝人とのつながり〟で、何事にも誠心誠意を尽くす峯岸に寄せられる信頼は厚い。
地元はずっと変わらず、東京の練馬です。私が幼かった頃はまだ自然が残る環境で、周りには屋敷林や畑が点在し、大きな空き地もあって子供が遊べる場所は多かった。友達と一緒に木登りをしたり、野球や缶蹴りをしたり、元気に遊び回ったものです。
中・高の6年間は一貫校である武蔵で過ごしました。自宅から近いんですよ。グラウンドで陸上部の人たちが練習しているのをよく見ていて、憧れていました。私は小学生の頃は体が大きく、わりに走るのが速かったから、「できれば入りたいな」と。それで武蔵中学校を受験したのです。
ただ入り口としては補欠合格で、以降も学業的には高校を卒業するまでずっと劣等生。東大進学者が多い受験校にいながら、試験期間以外はほとんど勉強せずで。好きな文系科目は勉強したものの、苦手な英数系の科目は先延ばしにするものだから、どんどん遅れていく。結局、平均すると成績は下から数えたほうが早いという具合でした。
憧れていた陸上部には中学入学早々から入部し、高校3年の春まで在籍しました。取り組んだ競技は短距離と走り幅跳び。まぁ素質がなかったのでしょう、自慢できるような記録は残せなかったけれど、日々の練習やみんなで盛り上がった合宿など、楽しかった思い出は尽きません。ちなみに、私は大学に進学してもしつこく陸上を続け、100mと走り幅跳びともに自己ベストを出すことができたんですけど、中高時代を振り返ると、もっと一生懸命やっていれば記録も伸びただろうにと、反省心のほうが強いです。陸上競技にしても学業にしても〝やりきった感〟がないというか……。こんな感じだったから、充実した青春時代だったとは言えないのが正直なところです。
公認会計士を志望するようになったのは高校2年生の時。いずれは、税理士事務所を営む父親の跡を継ごうと考えてのことだ。「継いでほしい」と言葉にされたわけではないが、病気がちだった父親の大変な様子を目にしていた峯岸にとっては、自然な選択であった。
父は浅草の会社で経理の仕事をしながら税理士資格を取得し、34歳の時に事務所を開業したんです。もともと体が弱かったのですが、私が高校2年生の頃からかなり悪い状態になり、それでも事務所の人たちと一緒に頑張っていました。大変だったと思いますよ。長男である兄貴は別の道を目指していたから、継ぐなら私しかいないと。
もう一つ。私はずっと劣等生だったから、どこかでリセットしたい気持ちがあったのです。そのためにも資格試験を目指そうと考え、大学進学したというわけです。商学部のある大学を受験しまして、そのなか、何とか合格したのが中央大学でした。
ここからがリセットです。もう何に対しても苦手意識を持たないと決め、在学中に必ず公認会計士第二次試験に合格すると、強い気持ちでもって臨みました。当時の中央大学には受験団体が3つあって、私はすべての入部試験を受けたんですけど、合格したのが「志雲会」でした。大学入試よりはるかに難しい試験だったけれど(笑)、ここに拾ってもらえたことは大きかった。
4年間の大学生活のほとんどを占めていたのは志雲会での活動です。午前中は同学年みんなで取り組む図書館での自習、午後は先輩に教えてもらう合同勉強、そして、終わったあとは麻雀というのが基本パターン。そういえば、大学に入ってから一時期珠算塾に通って、小学生と一緒に習ったこともありましたねぇ。我々の時代はまだ算盤でしたから。ときに熱い議論を交わした合同勉強、厳しい夏合宿、熱気にあふれた麻雀……同学年だけでなく、先輩・後輩たちとの交流は本当に価値あるものでした。
二次試験は2年生から受験し、3回目となった4年生の時に合格。目標どおり在学中に合格できたことは、素直に嬉しかったですね。志雲会に入っていなければ、叶わなかったと思います。今も交流が続く諸先輩や、後輩だった妻と出会えたのもここ。そういう意味でも、私にとって志雲会は間違いなく大きな存在だと言えます。
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税理士法人 峯岸パートナーズ代表社員峯岸 芳幸
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