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「変革の時代だからこそ、監査人としての気概、泥臭さみたいなものは、改めて重要だと思う」
公認会計士浜田康事務所
浜田 康
会計士の肖像
日本公認会計士協会
相談役藤沼 亜起
日本を代表する公認会計士、藤沼亜起(ふじぬま・つぐおき)は、早くから国際畑中心に活動し、その地歩を築いてきた。2000年、日本人として初めてIFAC(国際会計士連盟)の会長に選任され、その後は、日本公認会計士協会会長に就任。いずれにおいても、組織やガバナンス改革に積極的に取り組み、藤沼のエネルギーは、一貫して、会計にかかわる国際的なインフラ整備に注がれてきた。歴任した要職の多くは推されてのことだが、それは、藤沼のフランクな人柄と本質を突く言動が周囲を惹きつけ、期待を集めるからだ。その一つひとつに応えてきた藤沼は、まさしく正統派のリーダーである。
私はスロースターターで、人生の後半になればなるほど、スピードが増していったんですよ。子供の頃は落ちこぼれだったから(笑)、そんな私を知る同窓生たちにすれば、会計士協会の会長になったとか、昨年、春の叙勲を受章したとか、そういう話になると「えっ!藤沼が?」という感じで。
ただ性格上、友人は多かったし、学生時代は一貫して先生からも好かれたというか、可愛がってもらいました。私は末っ子なんですけど、末っ子って調子のいいヤツが多いでしょう(笑)。それがよかったのかもしれない。高校時代の担任には、よく山登りに連れて行ってもらったし、最近では、中学時代の英語の先生が、終活のつもりなのか……海外で買い集めてきた品を、私にドカドカ送ってくる(笑)。そんな具合に、今でも気にかけてもらえているのは、うれしいことです。
「何かプロフェッショナルな道に」と意識するようになったのは、中学生の頃でしょうか。というのも、私の地元である杉並区は、わりに教育熱心なところで、成績優秀な人たちは、進学校として有名な都立西高校から東大へ、というコースを目指すわけです。でも、私には到底望めないコースだったから、ならばプロの職業人を目指そうと。弁護士という考えもありましたが、「会計士がいいんじゃないか」、兄がそう言ったのです。当時としては新しい職業でしたし、興味を持った私は、ここから会計士になろうと決めたのです。
公認会計士試験の合格者を多く輩出する中央大学を選んだのは“当然”の流れ。藤沼は商学部に入学し、そして、とりわけ難関だった井上達雄教授のゼミ試験にも合格し、順調に歩を進める。しかしながら、会計士試験に向けて本気でエンジンをかけたのは4年生になってからで、それまでは藤沼らしく、青春を謳歌していた。
商学部が運営する「商学会」というクラブに入って、仲間と熱心にやっていたのは、ほかの大学と付き合うこと。いろんな大学と連携して、例えば経営学や会計学など、テーマを決めて、学会のミニ版みたいな感じで発表し合う場を設けるとか、いろんな企画を立てて活動するんです。まぁ主たるものは遊びでしたが。この頃人気のあったダンスパーティーも、よく企画したものです。パーティー券をデザインし、いくらで売るとか、バンドはどうするとか、ちゃんと収支計算もしながらね。
井上ゼミって名門で、ゼミ生の7、8割以上が会計士試験に合格していたんです。当然、ここに入ってくる学生は受験に燃えているから、商学会の活動に勤しむ私たち仲間とは、あまりソリが合わないわけです。「お前たちは真面目じゃない。もっと受験勉強に取り組めよ」って、よく言われたんだけど、「いやー、人生は長いから」なんて調子のいい言葉を返したものです。でも井上先生は、受験に向けてばかりでなく、広くほかの大学と交流することに関して、「大事なことだ」と評価してくださった。先生は正統派の研究者でありながら事務所も経営する、大学教授としては珍しく実業を知る方だったので、私たちのような連中を面白がってくれたのかもしれません。
4年にもなると、さすがに本気で勉強しなければと。それまで強気なことを言っていただけに、会計士試験に合格できなかったらみっともないし。だから集中して、必死に勉強しましたよ。合格したのは大学を卒業した年ですが、その間は、東京会計学院で専任講師を務めながらで、これもいい勉強になった。人に教える、つまり授業をしたり、そのための資料をつくったりするのは、自分に翻ってきますから。人生で一番勉強した時期ですね。
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日本公認会計士協会相談役藤沼 亜起
[業界活動など] 現在、日本公認会計士協会相談役、財務会計基準機構評議員ほか、上場会社の社外取締役及び監査役多数