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「変革の時代だからこそ、監査人としての気概、泥臭さみたいなものは、改めて重要だと思う」
公認会計士浜田康事務所
浜田 康
会計士の肖像
日本アイ・ビー・エム株式会社
営業担当 取締役 専務執行役員ポール 与那嶺
ポール与那嶺のキャリアは実に多彩である。1979年、ピートマーウィック(現KPMG)でスタートしてから今日まで、米国と日本を「飛び歩いてきた」。日本企業の米国現地法人を支援するコンサルタントとして活躍した後、転職、起業。そしてここ10年は、日本のコンサルティング業界の立役者として手腕を振るっている。いつも請われて新たなステージに立ってきた。与那嶺が本分としているのは“人助け”。どのような立場であれ、そのコンテンツが有意であれば必ず全力を尽くす。だからこそ、多くの仲間やクライアントは与那嶺に厚い信頼を寄せる。
父親は、戦後初の外国人として巨人、中日で活躍した与那嶺要氏。日本の野球史に名を残す偉大な人物だ。その長男として生まれた与那嶺の人生は、しごく当然のこととして、プロ野球選手を目指すところから始まる。
物心がつくかつかないか、3歳の頃からバットを手にしていました。すべては野球で回っているような家庭環境でしたから。父が中日の監督を務めていた頃は、試合に勝ったか負けたかで家の雰囲気がまったく変わる。決して感情的になる人ではなかったけれど、負けると、自分のベッドルームにこもったりしていましたね。
いわゆる“有名な親”を持つというのは、プラス、マイナス両面あって。例えば旅行に行く時などは、航空券がエコノミー席であっても航空会社がアップグレードしてくれる。そういうことはプラス面(笑)。逆にマイナス面は、やはり周囲からの期待です。野球小僧だった私は、ほとんどの時間を野球場で過ごしていましたが、常に「与那嶺の息子だから」という目があった。パフォーマンスを出せない時は「与那嶺の息子なのに」となる。プレッシャーはずっと感じていました。だから子供の頃は、それに反発を覚えることもあったのですが、今年2月に父が他界した時、私はつくづく恵まれていたと思ったんですよ。私の仕事人生において、父の有名さは多くの場面で有利に働いたし、それは親が残してくれた資産なんだと。そして何より、ネバーギブアップ、簡単にあきらめない精神というものを父は教えてくれました。
6歳から18歳まで、与那嶺はセント・メリーズ・インターナショナル・スクールで過ごす。生徒は約70カ国から集まっており、国による文化の違いや“人はそれぞれである”ことを肌で学んだ。ここで培われたオープンマインドは「仕事においても非常に役立っている」という。そしてこのスクール時代も、与那嶺はプロ野球選手になるという夢を胸に、野球に熱中する。
意外かもしれませんが、父は野球をやるなと言っていたんです。当時の野球選手はそんなに報酬も良くなかったし、「30代後半にもなれば選手としての寿命がくる。勉強して、何か資格を取ったほうがいい」と。何度もそう言われるので、自分には野球の素質がないのかなって……。むしろ野球の道に進ませたかったのは母のほうです。やはり華やかな世界ですから。のちに、私が会計士になると言った時、ガックリきていましたね(笑)。
セント・メリーズの野球チームは、国際学校のリーグ戦では決して弱くはなかったけれど、日本の高校野球チームと対戦することはなかったので、それが残念。ただ、当時のPL学園とか、強豪と試合しても相手にされなかったと思いますが。1年中は練習しないんですよ。秋はフットボール、冬はバスケットだとか、年に3種類くらいのスポーツをするので。年中練習している日本の学校は強いですよ。それでも私は、当然のようにプロ野球を目指して、練習に明け暮れていました。
余談ですが、当時のセント・メリーズは、高校2年になるまで日本語禁止だったんですよ。使える言語は英語とフランス語だけ。日本語をしゃべると停学になるくらい厳しかった。家でもほとんど英語だし、私はそれまで日本語教育を受けたことがなかったので、社会人になってから大変でした。多少は話せたものの、特に敬語がわからなくて、本当に苦労しました。
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日本アイ・ビー・エム株式会社営業担当 取締役 専務執行役員ポール 与那嶺