The CFO –ニッポンの最高財務責任者たち-
株式会社チェンジ
取締役兼執行役員CFO山田 裕
CFOを目指す会計士は珍しくないが、山田裕氏の持つ資格は税理士である。だが、異色なのはその肩書だけではない。「全力でやらないと、上場企業のCFOは務まらない」という言葉の裏には、それを裏打ちする“回り道人生”があった。
1970年、新潟市に生まれた山田氏は、名門・県立新潟高等学校に進学する。そこで「今の当社会長である神保(吉寿氏)と同級生だった」ことが現在につながるのだが、もちろん当時はそんな未来を知る由もない。
高校でも成績優秀だった山田氏は、一橋大学商学部を受験するのだが、よもやの不合格。ここから、自称「ドロップアウト人生」はスタートする。
「大学を落ちたその足で、有名予備校を受けたら東大進学のトップクラスに入れたので、じゃあ東大でも目指してみるかと。予備校の寮に入ったのですが、授業に出ずに、寮仲間と遊びっぱなし。結果、翌年も受けた大学は全部落ちて、新潟に連れ戻されました。その時の仲間は社長になるやらみんな偉くなっていて、当時の思い出話を肴にして今でもよく会っています」
2浪の末、慶應義塾大学経済学部に合格。今度は大学生として上京した山田氏だったが、また落胆を味わう。
「時代はちょうどバブルの頃で、大学のなんとなくチャラチャラした雰囲気が耐えられなかった。“ヒリヒリ”する人生が送りたくて、学校にはほとんど行かず、新宿で知り合いの飲食店の手伝いを始めたのです」
とにかく“仕事ができた”山田青年はどんどん出世して、経営まで任されるように。月の収入が学生では考えられないくらいになったというから、もうバイトの域ではない。
「当時の新宿には、本当にいろんな人間がいました。共通しているのは、みんな歯を食いしばって生きていること。ぬるいと感じた大学生活とは大違いで、“生きてる実感”がハンパなかった」
充実した生き方を見つけられたのはよかったのだが、単位が足りない学生を抱える大学にも事情があった。ある日、山田氏は大学から呼び出される。そして「君は経済学部の受験に2番で入学した優秀な学生で本当に残念な話だが、除籍か中退か、どちらかを選びなさい」と告げられたのである。
「情けない話で、親にも面目が立たない。ただ、こうなった以上、本気で新宿からのし上がってやる、と思っていました。今になって考えると、両親にどれだけ心配をかけたかわかりません。大馬鹿野郎ですね……」
それを思い止まらせたのは、当時つき合っていた女性、のちの妻だった。
「『このままだと人生を誤る。ご両親にどう説明するの?』と、切々と諭されて目が覚めた。で、新宿からのし上がるのは、きっぱりあきらめました。あの時、彼女の言葉がなかったら、今、僕はどうなっていたかわかりません。僕をいつも支えてくれる妻には、いくら感謝してもし足りません」
ただ、そうなってみると、大学中退の26歳である。悪いことに、世の中はバブル崩壊後の不景気にあった。
「相変わらず、ここから人生一発大逆転、みたいなことを考えていた僕に、『税理士という資格がある』とアドバイスしてくれたのも、彼女だったんですよ。仕事をしながらでも取得可能と聞いて、じゃあやってみようか、と」
こうして、97年、運よく就職できた会計事務所で働きながら、税理士試験の勉強に勤しむ日々が始まる。簿記・財務諸表論は簡単に合格できた。しかし、税法の暗記には、満員の通勤電車の中で必死に丸暗記をするが苦戦……。結果、大学院に通って税法を学び、税理士の資格を取得した。
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株式会社チェンジ取締役兼執行役員CFO山田 裕