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「変革の時代だからこそ、監査人としての気概、泥臭さみたいなものは、改めて重要だと思う」
公認会計士浜田康事務所
浜田 康
会計士の肖像
株式会社オービックビジネスコンサルタント(OBC)
代表取締役社長 公認会計士和田 成史
歌舞伎役者が登場するテレビCMでお馴染みの「勘定奉行」。現在、奉行シリーズのユーザーは56万社を超え、会計・財務を柱に企業の基幹業務全般をカバーするパッケージソフトとして、圧倒的な存在感を放っている。生みの親は和田成史。会社を起こしたのは32年前、PC(パソコン)が登場したばかりの頃である。和田は、すでにこの時から汎用ソフトウエアに着目し、歳月を経て、日本の会計業務にコンピュータによる変革をもたらしてきた。単に時流に乗ったわけでも、奇策を取ったわけでもない。社会貢献を志すひとつのかたちとして、急がず、硬骨に事業と向き合ってきての今日である。
祖父が事業家で、品川駅の近くで「和田屋薪炭店」という燃料の小売問屋をやっていたんです。故郷の青森から薪や練炭を仕入れまして。父が二代目を継いで、祖父と二人で商売をしていたので、とにかく大勢の人が出入りする環境で育ちました。東北から出稼ぎに来た親戚とも一緒に暮らしていたから大家族で、従業員も合わせると、多い時は40人ほどの店構え。末っ子の僕はマスコット的な存在で、大人たちから本当にかわいがってもらいました。時代としては、まさに『三丁目の夕日』ですよ。夜はみんなでちゃぶ台を囲んで食事をする、あの世界です。僕は天真爛漫そのもので、オート三輪に乗っけてもらってははしゃぎ、暗くなっても家に帰らず遊び続け……。親の言うことなんて聞かないやんちゃ坊主でした。
一方で、子供ながらに商売というものを見てきたので、やはり影響は受けているでしょうね。商売には波がある。いい時は、家族で温泉に行ったりできるけれど、厳しい時は親が深刻な顔をしている。そんな単純な事柄でも、目の当たりにしてきましたから。小学校6年生の頃、親は店をやめて貸しビル業に転じたのですが、ひとつの産業が斜陽になり、人もだんだん減っていく様を見ていて、時代性の重要さを子供心に感じていたように思います。
もともとスポーツが大好きな和田が熱中したのは野球。勉強などそっちのけだ。小学校から帰ってきたらランドセルを玄関に放り出し、すぐさま家を飛び出して野球、次の日はそのままのランドセルを抱えて学校に行く。終始、そんな具合である。それが、猛烈な勉強生活へと一転したのは、4年生になったばかりの頃だった……。
野球仲間と遊んでいた時のことです。仲間の一人のお母さんがやって来て、言ったんですよ。「あの子と一緒にいたら、勉強できなくなっちゃうよ。遊んじゃだめでしょ」。僕のこと(笑)。野球やって遊んでばかりでしょ。確かに成績はひどいもので、43人中42番でしたから。と、笑い話ではなく、目の前で言われた僕は大変なショックを受け、泣きながら家に帰って、母親に「僕、勉強するよ」と宣言したのです。
実際、その日から猛烈に勉強するようになりました。深夜12時、1時まで、必死に。エネルギーを向ける対象を変えたわけです。するとすぐに13番まで成績が上がり、4年生の3学期には1番になった。やれば、こんなにできるものなんだ!これは、のちにもつながる大きな自信になりました。
それで受験勉強も始めて、立教池袋中学に入学したのです。最高でしたね。高校時代合わせての6年間で、今でもお付き合いのある先生や大勢の友人に恵まれ、伸び伸びと過ごすことができました。男子校だからバンカラで、遅刻でもしようものなら先生にバンと殴られて、眼鏡がすっ飛ぶような世界だったけれど、情が深くて、僕にはとてもいい環境でした。
何より、以降の受験がないから、自分の好きなことを自由に勉強することができたのがよかった。僕は地学や石の研究に興味を持っていたので、希少な石や日本最古の石を、全国あちこちへ探しに行ったものです。野球や水泳も存分にやったし、学業、スポーツ共に、好きなことに全力投球できたという確かな実感があります。
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株式会社オービックビジネスコンサルタント(OBC)代表取締役社長 公認会計士和田 成史
[主な役職]
(社)コンピュータソフトウェア協会(CSAJ) 会長
経済産業省 産業構造審議会ソフトウエア小委員会 委員
(社)日本コンピュータシステム販売店協会(JCSSA) 理事
ITコーディネータ・パートナーズ(ITCP) 副会長
(社)コンピュータ教育振興協会(ACSP) 代表理事
(社)日中協会 評議員
(財)日本・ベトナム文化交流協会 理事
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