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「変革の時代だからこそ、監査人としての気概、泥臭さみたいなものは、改めて重要だと思う」
公認会計士浜田康事務所
浜田 康
会計士の肖像
一般財団法人 会計教育研修機構 理事長
日本公認会計士協会 前会長
手塚 正彦
2022年7月まで日本公認会計士協会の会長を務めた手塚正彦のキャリアは、月並みな表現ながら“波乱万丈”というしかない。入所した中央監査法人が青山監査法人と合併、国内最大規模を誇る法人となるものの、「カネボウ粉飾決算事件」が明るみに出たことで分裂。最終的には、所属法人の解散を余儀なくされる。時間を戻せば、そもそも会計士を目指したきっかけが中3で発症した病だったというから、スタートから“普通”ではなかった。
出身は横浜の綱島です。両親とも信州・上田の出なのですが、父の会社勤務の関係で、私が生まれる少し前に転居したそうです。
小学生の時には、本気で野球選手を目指していました。超一流は無理でも、一流半ぐらいにはなれるのではないか、と(笑)。実際、5年生の終わりに、地元の少年野球で「オール横浜」のメンバーに選ばれたんですよ。ところが、その後すぐに肘を怪我してアウト。もらっていたユニフォームをなかなか返しに行けないほどのショックでした。
でも、運動をやりたいという気持ちは強く、そこからはサッカーに転向です。中学、高校は栄光学園という進学校に進み、高2までサッカー漬けの日々。当時はけっこう強豪で、中学時代は神奈川県大会優勝間違いなし、と言われていたのですが……。中学3年の夏の大会で、春には3-0で勝っていた相手とPK戦になり、主将だった僕一人が外して負けてしまった。
高校2年の時に負けた試合でも、何の因果かやっぱりPK勝負になって、「手塚、蹴るか」「蹴りません」(笑)。結果は敗戦で、それが高校時代最後のゲームになりました。
実は、中3の時に特発性腎出血という病に見舞われて、医者から腎不全や透析になる可能性もある、と宣告されていたのです。いったん治ったと思ったのですが、高2で再発したため、激しい運動は、そこでドクターストップになってしまいました。
幸い、社会人になってから腎臓病は完治する。ところで、病気を経験し、「医者ってすごい」という思いにとらわれた高校生の手塚は、一時医学部への進学を志した。だが、物理などの成績がネックとなり、高2で文転することに。そして、あらためて東京大学経済学部に目標を定め、1981年、一浪の末に合格を果たす。
ただ、大学でも体育会でサッカーをしたかったのですが、目標を失った感じで、勉強には身が入りませんでした。テストの前に、クラスのよくできる女子から、「あなたのためにならないから、本当は貸したくない」と怒られながらノートを借りて、なんとか凌いでいたという(笑)。そんな大学時代の僕を救ってくれたのは、バンドです。高校時代にも、サッカー部の友人に誘われてやっていたのですが、東大に入った仲間から、「お前もやれ」と言われて。ギターもそんなに上手くはないし、必死についていった感じでしたが、この音楽活動は楽しかったですね。
自分の将来については、ずっと父親と同じようなサラリーマンになるんだろうな、と思っていたんですよ。漠然とですが。そんな僕が、会計士の道を考えるようになったのは、さて就活を始めようかというタイミングでした。3年の終わり頃、主治医に就職について相談をしてみたのがきっかけです。先生は、「社会に出ても激務は避けるように」「何か資格を取ってみたらいかがですか」と言うわけです。折しもバブル景気直前で、サラリーマンは十分過ぎるほど“忙しい”時代でしたから。
なるほどと思い、自分の力で稼げる資格って何だろうと考えてみると、経済学部では弁護士は無理、税理士は科目が多くて資格取得に時間がかかるらしい。そうやって行き着いたのが、会計士でした。この資格を持てば、自分で顧客にサービスを提供し、しっかり稼げるのではないかと思えたのです。
考えてみれば、怪我と病気で僕の人生は、大きく変わりました。それがなければ、間違いなくサラリーマンになっていたでしょう。今があるのは病気のおかげなんですね。
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一般財団法人 会計教育研修機構 理事長
日本公認会計士協会 前会長
手塚 正彦