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「変革の時代だからこそ、監査人としての気概、泥臭さみたいなものは、改めて重要だと思う」
公認会計士浜田康事務所
浜田 康
会計士の肖像
株式会社ちふれ化粧品
代表取締役社長片岡 方和
公認会計士の企業トップ。欧米と異なり日本ではまだ稀な存在の一人である片岡方和は、「たぶん株主総会の時に一番元気な社長じゃないかな」と笑う。数字を熟知した経営者は鬼に金棒、どんな質問が飛んできても怖くない、というのがそのココロだ。ところで、片岡は1947年の生まれ、〝団塊世代の先頭〞である。故郷の高知県春野町(現高知市)は、〝海と山との中間にある田舎〞だった。
小さな頃は、文字どおり野山を走り回っていましたね。一面にレンゲが咲く田植え前の田んぼで相撲を取ったり、虫捕りしたり。何か呑み込んだ蛇を捕まえて吐き出させたら、カエルがピョンピョン跳んでいった光景は、今でも記憶に残っています。豊かな自然を遊び場に、たくさんの友達と暗くなるまで。子供にとっては、このうえなく贅沢な環境だったと思います。
小学校に入ると読書が好きになって、5年生くらいの時には『世界文学全集』を手に取るようになっていました。こう見えて、どちらかというとおとなしい少年だったんですよ。将来の夢などはまだおぼろげにもなかったのですが、6年生の時に社会科の教科書で湯川秀樹のノーベル賞受賞の話を読んで、大いに感動したのを覚えています。「日本人初のノーベル賞受賞が、終戦直後の日本に希望をもたらした」というストーリーです。
でも、私自身は、ほどなく希望どころか人生初の挫折を味わうことになりました。勉強はしなかったけれど、そこそこ成績は良かったので、一番の進学校である中高一貫の土佐中学に、楽々受かるだろうと疑わなかったんですよ。ところが、結果は不合格。受験した友達はほとんど受かりましたから、悔しいやら悲しいやら。後から聞いたら、みんな塾にまで通って一生懸命勉強していた。まあ自業自得です。
ただ、不本意ながら通った公立中学では、ほとんどの教科でトップの成績で、代表委員でした。やっぱり〝一番〞はいいもので、大いに自信を取り戻すことができた。高校受験では土佐高校に合格して、失敗のリベンジに成功しました。
この頃には、「あの湯川博士のいる京大に行きたい」という目標が定まっていたのだという。「君の成績では無理だ」という担任の言葉に歯向かうように、3年生になってから猛勉強を開始し、見事理学部に現役合格を果たす。そして2年の終わりには、狭き門である物理学科への進学もクリア。普通なら研究者を目指すコースである。
京大の物理に行くといっても、研究者になるつもりはまったくなかったんですよ。ただ湯川先生の講義を聞いてみたいという一心です。念願かなって3年生の時に5、6回授業を受けることができて、もうこれで十分、と(笑)。学園紛争華やかなりし頃で、京大キャンパスもバリケード封鎖されたりしたのですが、授業がなくなるのを苦に思わないような、決して模範とはいえない学生でしたね。
ちなみに、研究していたのは高エネルギー素粒子論という分野で、宇宙から飛んでくる放射線の軌跡を実験室で捕らえて、写真を撮って分析したりしていました。正直、これも一応かたちにできればいいだろうくらいの気持ちだったから、何か成果を残すとかいうレベルとは程遠いものでしたよ。
大学時代も相変わらず本は毎日のように読んでいました。ドストエフスキー『罪と罰』、スタンダール『赤と黒』、ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』……。とにかく、有名な本は片端から読破しないといけない気がしてね。どんな内容だったのか、もう思い出せないのですが(笑)。
ただ、読んでみると確かに面白いし、何かしら得るものがあるわけです。本ってすごいなあ、と。後に働きながら会計士試験に挑むわけですが、その時も「とにかく関連の本を読みさえすれば、合格に必要な事柄くらい頭に入るだろう」という妙な楽観主義に背中を押されたというか……。臆せず難関の試験に向き合えたのが豊富な読書経験の賜物だったのは間違いありません。
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株式会社ちふれ化粧品代表取締役社長片岡 方和