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「変革の時代だからこそ、監査人としての気概、泥臭さみたいなものは、改めて重要だと思う」
公認会計士浜田康事務所
浜田 康
会計士の肖像
株式会社プルータス・コンサルティング
代表取締役中嶋 克久
例えば、非上場の会社の株価は、いくらになるのか?それを巡り争われた「旧カネボウ株式買取価格決定請求事件」では、鑑定補助人としてかかわったプルータス・コンサルティングが算出した算定価格が採用(2008年3月東京地裁判決、最高裁で確定)され、その時に用いられた評価手法(DCF法)は、後に頻発する同種の事件におけるベンチマークともなった。04年に監査法人を辞した中嶋克久が設立した同社は、そうした企業価値や金融商品の公正価値の評価とともに、そのベースを生かしたストック・オプション、ワラント、種類株式といった「エクイティ関連証券の設計」という新たなサービスを提供している。
「リスクを恐れる大手は手を出さない」事業を創造したパイオニア精神、チャレンジのマインド。それは、中嶋が監査を通じて培った会社の分析能力に、日本最大のベンチャー・キャピタル「ジャフコ」、公的資金による銀行への資本増強業務遂行を目的とした預金保険機構への出向をはじめとする豊富な経験が付加され、育まれ、磨かれたものだった。
4年前の震災の時、岩手県宮古市の市庁舎に向かって、海岸線の堤防を乗り越えた真っ黒な津波が襲ってくる映像が、何度も流されました。私は、あの宮古の生まれなんですよ。幸い、JR線の線路の盛り土がブロックして、実家は流されずに済んだのですが。
父は農家の出で、農業学校を卒業した後、市役所の農林課に勤めていました。役所は、普通3年もすれば異動になるものですが、父の場合は、なぜか40歳前後で課長になるまで、ずっと“農のスペシャリスト”を貫いていましたね。「あそこに養豚団地をつくった」「農家のために、洪水でも流されない橋を架けたんだ」なんていう話をよくしていました。
うちは弟とのふたり兄弟なのですが、性格はかなり違って、弟は外向的で、今でも損保の営業をバリバリやっています。片や私は“おとなしい長男タイプ”。父はそんな私のことが心配だったのか、小学校も高学年になると、「何か資格を身につけたほうがいい」としきりに言うようになりました。子供ですからね、「ああそうなのか」と素直に思うわけです。そうやって、徐々に刷り込まれているうちに、中学2、3年の頃になると、「公認会計士という資格もあるぞ」と話がより具体的になってきた(笑)。父親としては、自分が行けなかった大学を出て、きちんとした資格を取って活躍してほしい、という期待があったんでしょうね、きっと。
父がなぜ会計士のことを口にしたのかは不明ですが、同じ資格なら、切った張ったの“言葉の戦い”をやる弁護士より、会計士のほうが向いているかな、と自分でも何となく感じたのは事実です。数学は好きで、成績もまあまあよかったですし。
ところが、高校受験で早くも人生の挫折を味わう。悠々合格のはずだった盛岡の進学校に不合格。中学浪人も頭をよぎったが、結局、二次募集のあった釜石南高校(当時)の理数科に進むことに。「会計士の資格を取る」という目標も、いったん“リセット”する。
家から遠いので、下宿しました。でも、下宿生活って、精神的にけっこう辛いんですよ。幸か不幸か“長男タイプ”だから、みんながジャン卓を囲んでるのを横目に見ては、部屋に閉じ籠もる。で、ノートを広げて勉強するのかといえば、当時全盛だったラジオの深夜放送に耳を傾けているうちに、夜は更けていく……。“暗い”としか表現しようのない高校生活でした(笑)。
勉強に身が入らないのには、いまひとつ将来展望が描けなかった、というのも大きかったと思います。理数科に入ったのだから大学も理系だろう、と漠然と考えていたのですが、会計士になる目標はどうするのか……と。
しかし、高3の夏休みの初日になって、やはり文系の大学に進み、会計士を目指そう、と決めました。周囲を見ていて、“理数”に関しては、「中学の数学が得意だった」くらいのレベルでは、太刀打ちできそうもないと、この期に及んで観念したのが理由です。
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株式会社プルータス・コンサルティング代表取締役中嶋 克久
[主な著書]
『資本政策の考え方と実行の手順』(共著:中経出版)、『企業価値評価の実務Q&A』(共著:中央経済社)、『ゴーイング・コンサーン早わかり』(共著:中経出版)、『種類株式・新株予約権の活用法と会計・税務』(共著:中央経済社)、『ストック・オプション会計と評価の実務』(共著:税務研究会出版局)、『戦略資本政策(新時代の新株予約権、種類株式活用法)』(共著:中央経済社)。