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「変革の時代だからこそ、監査人としての気概、泥臭さみたいなものは、改めて重要だと思う」
公認会計士浜田康事務所
浜田 康
会計士の肖像
篠崎公認会計士事務所
篠崎 真吾
一橋大学在学中に、当時は珍しかった学生ベンチャーを立ち上げ、退学も辞さず入れ込む。公認会計士資格取得後は、監査の世界を飛び出し、伸び盛りだったマイクロソフトにビジネスアナリストとして雇われたり、ロッテリアの社長を務めたり――。篠崎真吾は、「同じ組織に一番長く属したのは、小学校の6年間」と笑う。その人生を決定づけたのは、中学入学とともに手にした、真新しい一冊の教科書だった。
生まれたのは1962年、「河津桜」で有名になった、静岡・伊豆の河津町です。両親は親戚のやっていた旅館に働きに通っていて、夕飯はいつも弟と二人、親が用意してくれていたものを温めて食べるという子供時代でした。でも、ぜんぜん寂しくはなかったですよ。伊豆には、野山もあれば海もある。友達とランニングシャツ一枚で駆け回って遊んだり、夏休みともなれば、海に潜ってサザエや魚を捕まえては、集めてきた流木を燃やして、焼いて食べたり。まあ、典型的な「昭和時代の田舎の子供」です。
ただ、わりと“新し物好き”な少年だったんですね、僕。中学生になって初めて手にした『NEW PRINCE』っていう英語の教科書に、なぜか強く惹かれるものを感じた。「これからは英語の時代だ」とかではもちろんなくて、単純に「国語や社会と違って、これ、新しいじゃん」と(笑)。
それで、親にねだって英語のカセットテープを買ってもらった。教科書の文章を外国人が読む教材です。それを聞いては一人で勉強していましたから、英語は自然と得意になりましたよ。
今話しながら、改めて思うのだけれど、この“出合い”は大きかったですね。「英語が話せる会計士」だったからこそできたこと、つながった縁がたくさんあります。結果的に、その後の人生を決めたといっても言い過ぎじゃないと思う。
高校時代には、交換留学生としてアメリカ・コロラド州に渡り、1年を過ごす。やがて英語力の生かせる外交官を志すようになり、その夢を叶えるべく、一橋大学法学部に進んだ。
外交官になりたいと思ったのは、「命のビザ」で多くのユダヤ人を助けた杉原千畝の本に感化されたから。あとから思えば青臭くもあるのだけれど、当時はけっこう本気だったんですよ。で、倍率の高い国際法のゼミにも入りました。
ところが……1年生のある時、OBの外交官が後輩たちとざっくばらんに話をする、という機会があったんですよ。そこで彼らの口から出た発言に、現実を思い知らされました。
例えば、「外交官の一番の仕事は、毎週のように日本からやってくる政治家や財界人のアテンドです」と言うわけです。それって、ツアコンじゃないか、と(笑)。出世競争に汲々とする実情も“ざっくばらんに”聞くに及んで、一気に熱が冷めてしまって。
早くも目標を失って、それからはバイト中心、みたいな学生生活ですよ。親父の口癖が「親の脛を齧っているやつが、偉そうなことを言うな」だったんですね。悔しくて、学費は自分で捻出するという気持ちでいましたから、サークルなどにも所属せず、家庭教師に塾の講師にと、精を出しました。
ところがそのうち、やはり“新し物好き”にはたまらない、面白い話が飛び込んできたんですよ。僕が学生だった80年代半ばは、ちょうど机に置けるパソコンが普及してきた時代だったんですね。「これ面白いな」と思っていたら、ある日、塾の講師の先輩が、「一緒にプログラミングの会社をやってみないか」と言うのです。塾のオーナーが資金提供してくれるというし、「じゃあやろう」と。会社を設立したのは84年、大学3年生の時でした。
学生が起業なんて、ほとんど例がない時代でしたが、あの事業は当たりましたね。今のようにソフトのパッケージなんてありませんから、各社が個別にプログラムしていた。仕事はわんさかあったんですよ。そのうちに大手の銀行や電機メーカーの関連会社なんかからも発注が来るようになると、もう天下を取った気分です(笑)。忙しくて授業に出る暇もない状況だったのですが、気にも留めていなかった。
「篠崎さん、あなたに残された選択肢は除籍か退学です」って教務課から電話があったのは、大学6年生の時です。在籍の記録がまったく消えるのも何なので、後者にしてもらいました。
親には「もったいないことを」と言われましたけど、自分自身は「まあ仕方ない」っていうくらいの感覚ですよ。自力で立ち上げたビジネスが軌道に乗ったんだから、ノープロブレムだ、と。
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篠崎公認会計士事務所篠崎 真吾