- vol.75
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「変革の時代だからこそ、監査人としての気概、泥臭さみたいなものは、改めて重要だと思う」
公認会計士浜田康事務所
浜田 康
会計士の肖像
南青山アドバイザリーグループ
CEO仙石 実
2020年、南青山アドバイザリーグループは、日本の会計事務所、会計コンサルティングファームなど約4000社を対象に選考される「ベストプロフェッショナルファーム」を受賞した。13年に設立以来、会計、FAS、税務のサポートで急成長を遂げた同グループの陣頭指揮を執るのが、トーマツ出身の公認会計士、仙石実である。若き日、「いつかは独立しよう」という思いを抱いたのは、経営者だった父親の影響があった。ただし、ここまで歩んだ道筋は、必ずしも平坦とばかりはいかなかったようだ。
1974年、埼玉の春日部の生まれです。すぐに同じ埼玉県の坂戸市というところに引っ越して、小学校1年の時に東京の西早稲田、小6でいったん埼玉に戻って、中1でまた東京へと、家は埼玉と東京を行ったり来たりしていました。子供の頃に、いきなり新しい環境に放り込まれるという経験を繰り返して、周りとうまくやっていく処世術のようなものを学ばせてもらった、という気もします。
小学校の頃は、みんなと野球をしたり、ブームだったファミコンで遊んだり。家は友達のたまり場みたいになっていたのですが、僕はみんなが楽しんでいるのを見るのが楽しい、というタイプの子供でした。そういえば、この前、たまたま小6の時の作文が出てきて、将来の夢に「お金持ちになりたい」と(笑)。腹巻から札束が出ているようなイラストが添えられていたのには、笑いました。
中学では、部活でサッカーとか陸上の棒高跳びとか、興味を持ったら、とにかくやってみるという感じでしたね。勉強にはあまり身が入らず、そろそろ受験というタイミングで、担任から「仙石の成績だと進学校は難しい」と言われたのを、よく覚えています。けっこうな屈辱で、そこから一念発起して、都立駒場高校に合格することができました。あのひと言がなければ、勉強に覚醒することもなかったはずで、今でも先生には感謝しています。
高校では野球部に入りました。ところが、今度は大学受験を控えた高3の時、練習でアクシデントに見舞われたんですよ。センターから思いっきりバックホームしたら、ボールと一緒に右腕が飛んでいく感触がして(笑)。疲労骨折でした。
左手も何とか使えたので、食事は大丈夫だったのですが、根を詰めた受験勉強には、やはり厳しいものがあります。右手のギブスが取れるや、数カ月必死に勉強して、何とか複数の大学に現役合格することができました。
進学先に明治大学商学部を選んだのは、ビルメンテナンスの会社を経営していた父親の背中を見て育ち、将来は自分も経営者になりたい、という気持ちがあったから。そのためには、会計士の資格を持っていたほうがいいだろうと考えた。公認会計士受験サークルである明大経理研究所で講義を受け、予備校にも通う生活を始めたのは、3年生になってから。しかし、ここから、その後のキャリアからは想像が難しい〝暗黒の時代〟が始まる。
就活はスルーして、進路を会計士一本に絞っていました。卒業後は5時、6時に起きて予備校に行き、夜の10時ぐらいまで勉強です。たまに家業を手伝いながら、そんな生活をずっと送っていたのですが、次の年も、また次の年も受からない。
仲間内では、毎年、合格者と不合格者が明確に分かれました。自分より若い学年の受験生が受かったりもする、シビアな世界です。合格祝賀会の話なんかをしているなかを、また翌年の受講申し込みをしなくてはならないというのは、今思い返しても地獄でしたよ。
結局、大学を卒業してから合格するまで、5年かかりました。予備校から「おめでとうございます」という電話がかかってきた時、両親はたまたま海外旅行に行っていて、家にいた愛犬のダックスフントと喜びを分かち合ったのを覚えています(笑)。
まあ、そんな笑い話にできるのも合格できたからで、そうじゃなかったら、今頃どうなっていたことか。あの経験があったから、ちょっとやそっとのことではくじけない胆力みたいなものが備わったのは、確かだと思うのですが。
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