The CFO –ニッポンの最高財務責任者たち-
株式会社3ミニッツ
取締役CFO 兼 経営管理部長石倉 壱彦
「スタートアップ企業の数は増加し、優秀なCFOや経営管理の人材のニーズが高まっていますが、まったく足りていません。会計士として、こんなにチャンスのある領域はないはずなのに、みんなどうしてチャレンジに消極的なのか」。そう〝スタートアップ業界〞の現状を語る石倉壱彦氏が、公認会計士試験への挑戦を開始したのは、大学3年のこと。そこには普通の学生とは少し違う決意が込められていた。
1980年、横浜市生まれの石倉氏は、父親の仕事の関係で、幼少期をハワイで過ごす。帰国して入学した小学校で、「日本語がわからず苦労した」少年が選んだのは、話せなくてもコミュニケーションが取れるスポーツだった。中学からはサッカーに打ち込み、フォワードとして頭角を現す。青山学院大学に進学後も、プロを目指してサッカーに打ち込む日々だったが、3年に進級する頃、ある決断を下す。
「高校、大学のスター選手がプロで苦しむ姿を目の当たりにして、自分はそこまではいけないかも、と。その道をすっぱり諦めることにしたのです」
そう決めて周囲を見回すと、友人たちはすっかり〝就活モード〞である。
「昨日まで遊んでいた仲間が、髪を切りスーツを着て、大手広告代理店や総合商社へ行きたいと言っている。普段彼らが語っていた夢や目標と就活における言動にギャップがあり、大きな違和感がありました。明確な目標がない状態での就活は、無理だなと思いました。そして、サッカーに代わって自分の夢を実現できる仕事をしたいと強く感じたのです。とはいえ、自分には武器がない。まずはそれを持つ必要がある――。それが強いスペシャリティを持ちたいと思った経緯でした」
当初は、スペシャリティ=資格としか考えられず、「正直、専門性の高い資格であれば何でもよかった」のだという。狙いを公認会計士に定めたのは、数学が得意だったことと、両親からの勧めが理由だ。そうした経緯で挑んだ会計士第二次試験(当時)に、石倉氏は25歳で合格を果たす。
就職先に選んだのは、KPMGあずさ監査法人(現有限責任あずさ監査法人)だった。入所した2005年は、日本でSOX法監査が動き出すタイミングであった。
「クライアントと一緒になって、その内部のルールや仕組みを考えていく仕事は、とてもやりがいがありました。実は試験に合格した時から、早く独立したいという気持ちがあって、監査法人は3年で辞めようと思っていたのですが、なかなか離れられなくて」「個として仕事をする」ために同法人を退所したのは、12年のこと。「その年の初めに結婚したことも、決断の背中を押しました。人生の節目だし、年齢も32歳。リスクをとって何かチャレンジしようとしたら、今を逃してはならないと考えたのです」
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株式会社3ミニッツ取締役CFO 兼 経営管理部長石倉 壱彦