
会計士の肖像
日本公認会計士協会
副会長(近畿会会長)後藤 紳太郎
現在、日本公認会計士協会の近畿会会長の職にある後藤紳太郎は、子供の頃から「数字が好き」だったという。いろいろ工夫するのも得意で、中学生の時には、自身の発明品が賞を取るなど、理系の才に恵まれたのは明らかだった。そんな後藤が高校時代に進路を転換し、公認会計士を目指そうと考えた理由の一つは、「なんとなくハッピーな仕事に思えたから」。会計士に会ったこともなかった〝高校生の直感〟は、その後の人生で、正しい選択だったことが証明されていく。
1956年、岐阜市の生まれです。両親は学校の先生。といっても、父親は絵描きで美術の教師でしたから、いわゆる〝教員一家〟とは違って、家のなかはわりと自由な雰囲気でした。
正直、小さな頃の思い出はあまりないんですよ。幼稚園に馴染めずに、〝中退〟したことは覚えていますけど(笑)。小学校に上がっても、扁桃腺が弱くて月1で休んでいるような子供で……。どちらかというと、一人でポツンといるタイプでした。
そんな少年時代だったのですが、小6の頃だったか、親が探してきた算数の塾に行って、数字が大好きになりました。学校の授業とは違い、数字の不思議さとか、問題を解く面白さとかを教えてくれて、一気に引き込まれてしまったのです。おかげで、中学、高校と、数学の成績はよかったですね。
中学の時には「発明クラブ」に入って、いろんなものづくりに挑戦しました。なかでも傑作だったのが、グラウンドの白線を引く手押し車に、同時に距離を計測できる仕組みを装着したアイデア。岐阜の市長賞を取ったのですが、学校で重宝がられて、結局作品は私の手元に戻ってきませんでした(笑)。
高校に入る頃からハマったのは、飛行機です。当時発行されていた『航空情報』や『航空ジャーナル』といった専門誌を隅から隅まで読んでは、そのメカニズムに感動していたことを覚えています。ですから、本当は名古屋大学にあった航空学科に進学したかった。でも、そこは医学部以上の難関で、泣く泣く断念しました。
そうなって、あらためて将来のことを考えている時に知ったのが、会計士という仕事でした。親を見ていても、組織のなかで汲々とせざるをえないサラリーマンは嫌で、〝自由業〟がいいな、と当時思っていて。ならばと、士業について調べたのですが、例えば弁護士や医者は、トラブルを抱えたり病気になったりという、人生のなかで辛い時期の人と向き合わなくてはならない職業ですよね。会計士はそうではなく、「大変よくできました」と言ってお金がもらえるハッピーな仕事らしい(笑)。今思えば、未熟な高校生としかいいようがないのですが、それが自分には向いていると感じて、目指すことを決めたわけです。
文系への転向を決めた後藤は、75年に名古屋大学経済学部に現役合格を果たした。ところが、専門に進む前の教養課程の段階で、いきなり2年の留年をくらう羽目に。その裏には、こんな事情があった。
私に数字の面白さを目覚めさせてくれた塾から、「講師をやらないか」という話があって、中高の数学を受け持つことになったのです。数字は、教えるのも楽しかった。家庭教師のバイトもかけ持ちでやっていたら、当時の大卒初任給以上の稼ぎに。でも、大学に行く暇がなくなっていた(笑)。
教養課程にいられるのは4年が限度ですから、さすがにこれではまずい、と。そこで気持ちを入れ替えて、アルバイトはすべて辞め、学業に専念することにしました。
会計士試験の勉強は、専門課程に行った頃から始めてはいたのですが、当時の名古屋には受験予備校がありませんでした。本格的に打ち込んだのは、大学卒業後、一念発起して大阪に出てからです。
始めてわかったのですが、私は試験勉強へのアプローチが他の人とは違っていました。いろいろ書かれていることについて、どうしてそうなるのかを理解するまで突き詰めないと、気が済まないというか頭に残らないのです。「理屈抜きで覚えることも必要だ」とも言われましたが、暗記は直前でいいと開き直って、自分流を貫きました。
なので、模試ではずっと合格圏外だったんですよ。でも、最終的にはラストスパートが効いて、大学を卒業した翌年の82年9月、公認会計士第二次試験に合格することができました。一緒に勉強していた仲間からは、「お前、何か変な手を使ったんだろう」とさんざん言われましたけどね(笑)。
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日本公認会計士協会副会長(近畿会会長)後藤 紳太郎
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