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「変革の時代だからこそ、監査人としての気概、泥臭さみたいなものは、改めて重要だと思う」
公認会計士浜田康事務所
浜田 康
会計士の肖像
石田正公認会計士事務所
石田 正
石田正の公認会計士キャリアは50年以上におよぶ。そのおよそ半分は監査法人に在籍し、日本および米国基準の会計監査、財務アドバイザリーに従事。この間にはシンガポール、ロンドンに駐在しており、日本人会計士が「海外で仕事をする」先陣を切った。そして、大きなターニングポイントを迎えたのは1996年。日本マクドナルドの上席執行役員(CFO)に就任したのを皮切りに、以降、石田は足場を事業会社に移していく。今でこそ組織内会計士の数は増えてきたが、石田はフロントランナーとして、この道を切り開いてきた。常なる冒険心を持つ先達の言葉は示唆に富む。
東京下町の江戸川区が地元で、家は酒屋。けっこう手広くやっていたのですが、親父は体が弱く、私が生まれる前に死んじゃったものだから、商売を辞めざるを得なかったようです。たばこの販売業だけを残して何とか凌いだものの、暮らしは貧しかったですね。懸命に働いて、姉と私、子供2人を育て上げた母親はやっぱりすごいと思いますよ。
「生まれてくる子が男だったら必ず酒屋を再興させろ」。親父がそう言い残していたので、私はいずれ商業高校に行って、商売を営む親戚のところで修業して……というルートのなかで育ったわけです。大学に行くとか、ましてや会計士になるとか、考えたこともありませんでした。
実際、都立の商業高校に進学したんですけど、環境が変わったのは3年生になった頃でしょうか。高度経済成長を背景に地価が押し上げられ、所有していた多少の土地が暮らしを支えてくれたのです。少し余裕も出てきたから、ならば大学に行きたいなと。違う世界を見てみたかったのでしょう、母親にそう伝えたら「しょうがないわね」と言いつつも応じてくれました。このあたりから、酒屋を再興するという路線から徐々に離れていった感じです。ただ、大学受験を決めた時期が遅かったので、勉強など全然追いつかず、1年浪人しちゃったんですけどね。
進学先は明治大学商学部。「本当の意味での母校」と言うように、大学生活は石田に素晴らしい時間と経験をもたらした。その最たるものが、約1年におよぶヨーロッパ自転車旅行だ。友人らとともに欧州各国を巡った〝無銭旅行〟は、その後の人生を方向づけるものとなった。
在学中ずっと続けたのはワンダーフォーゲル部の活動です。「女の子もいるし、楽しいぞ」と勧誘されたのがきっかけ(笑)。実際、1年生の頃は新人歓迎モードで楽しかったけれど、れっきとした体育会系ですからね、山に入ればそれはきつい。重い荷物に引っ張られてひっくり返ったり、途中でバテたりする連中も少なくなかった。私は幸い、高校生の頃から山が好きで、登山経験もあったから、けっこう楽しむことができたんですけど。
このワンダーフォーゲル部の仲間3人で、「どこか海外に出よう」と盛り上がったのが2年生を終えた頃。で、単なる旅行じゃ面白くないと、自転車での無銭旅行を考えたわけです。1年休学することにし、結果的に10カ月ほどかけてヨーロッパ各国を回りました。やはり同じ部の先輩につくってもらった自転車「サン号」を相棒にして。
出発、帰着ともに横浜港で、行きはナホトカに向かう北回り、帰りはマルセイユからの南回り。これが、金のない若い連中が使うルートだったんです。まずは、シベリア鉄道で向かったストックホルムでホテルの皿洗いをして滞在費を稼ぎ、マルセイユまでの横断旅行。途中、仲間と別れて単独行動したり、逆に新たな仲間が増えたり、面白かったですねぇ。様々な交流を通じて、外国人とのコミュニケーションや人種の壁が消えたこと、これが一番大きな収穫となりました。私は後のどのような仕事環境においても、組織・部門間の壁や人間関係に縛られずにやってきましたが、そういうフラットな感覚が養われたように思います。
もう一つ。いずれは海外で仕事をしたいと考えるようになったのも、この旅行の影響です。だから皆が就職活動をする時期になっても、私は一般企業に勤める気にはなれず、かといって、親父の願いであった酒屋の再興もますます遠のきで……この先どうしようかと。頭に浮かんだのは資格取得で、弁護士である年上の従兄弟に相談したところ、「商学部なのだから会計士がいいんじゃないか」と言うわけです。集中的に勉強する体力と気力があれば、合格できるって。かつ、会計士になったら、確か当時で月給30万円はもらえると言うものだから、気持ちが向いた。実際は話が全然違いましたけど(笑)。
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石田正公認会計士事務所石田 正