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「変革の時代だからこそ、監査人としての気概、泥臭さみたいなものは、改めて重要だと思う」
公認会計士浜田康事務所
浜田 康
会計士の肖像
プロティビティLLC
最高経営責任者兼社長神林 比洋雄
真の意味でのグローバル化が進行するなか、企業を取り巻く“不確実性”の量と複雑さが増大している。伴って、リスクマネジメントへの取り組みは経営要素として不可欠なものとなったが、この領域において、圧倒的な強さを発揮しているのがプロティビティLLCだ。リスクコンサルティングと内部監査サービスを両輪に、あらゆる角度からクライアント企業の課題解決に全力を尽くすプロフェッショナル集団である。「なかなか理解されなかったリスクコンサルティングが、ようやく認知される時代になった」。神林比洋雄(かんばやし・ひよお)が、そう感慨深く語るのは、26年間にわたり、アーサーアンダーセンで鍛え上げてきたスキルとスピリットが、今、結実しているからだ。ずっと心根にあるのは、「日本企業のグローバル化、その悩みと痛みに寄り添いたい」という深い思い。その曇りのなさが、神林に強さと信頼をもたらしているのである。
生まれた和歌山で暮らしていたのは11歳までで、その後は銀行員だった父の転勤に伴って、神戸、東京、西宮と移り住んできました。そのたびに、私は転校。小中高すべて、入った学校と出た学校が違うんですよ。和歌山で、みかん山を無心に飛び回っていた私は、行く先々で方言の違いに戸惑い、カルチャーショックを受けたものです。転校生って、最初はいじめられるでしょ。東京の中学に転校した時は“挨拶代わり”ということで、2階からバケツで水をかけられたりね。「なんで転校ばかり」って、わりとネガティブな気持ちでいたんです。ただ、転校を通じてある種の生きる術を学んだ気がします。
本能的に危険を回避する癖がついたためか、私は、少し構えながら人との距離を取る臆病な行動パターンをとっていました。それを見透かし、救ってくれたのが転校先の中学の担任です。「どんな人とも付き合えるよう、いい意味での八方美人になりなさい」。この言葉に後押しされて、以降、誰とでもフレンドリーになれる努力を続けるようになったのです。やはり、自分の性格形成に影響はあったかな……と。
家庭では、姉はいつも優しく、兄とは一緒によく遊び可愛がってもらい、父は、私たち3人の子供を公平に育てることを大事にした人でした。後に会計士の勉強を始めた時も、「お前だけに特別はない」と勉強資金はすべて借金。その額は就職時1年目の年俸を超えていました。また、モーツァルトをほとんど収集し、感受性が強く俳句や短歌をたしなみ、銀行の社長にまでなった父でしたが、読書好きの母と、政治や宗教、音楽、時事論争や文学論争なんかもやっていましたし、そういう意味では、精神的に豊かな環境でしたね。転校はつらかったものの、転勤のたび、みんなで寂しがり屋の父について回っていたからこそ家族の絆は強いし、仲もいい。これは感謝しています。
おとなしく座って勉強するより、体を動かすことが好きだった神林は、中学、高校を通じて、陸上競技のスプリンターとして活躍した。中学3年の時、非公式ながら出したタイムは100m・10秒7。東京都立戸山高等学校に進学してからは、国立競技場での関東大会やインターハイにも出場した。
陸上部には、かつて東京オリンピックで80mハードル5位に入賞した依田郁子さんと、そのご主人がコーチに来てくださって、限界ギリギリまで練習に励む充実した生活でした。ただ当時、身長が178㎝で体重は55㎏。食べても食べても体重は増えず、筋力がつかなかった。もっと筋力があったなら、けっこういいところまでいけたかもしれませんが、高2の夏、広島でのインターハイを最後に引退しました。
もうひとつ、自分の生活基盤がつくれなかったということもあります。この頃、両親は兵庫の西宮にいて、私は姉兄と一緒に東京中野で下宿暮らしをしていました。陸上競技に加え、進学校で勉強にも忙しかった私にとっては、食事や弁当をつくるのが大変。当時はコンビニもないし。耐えきれなくなって、高2のインターハイを境に実家に戻ったというわけです。半ば“自主転校”。陸上部の仲間や友だちと離れるのはすごく残念だったけれど、致し方なく……。だから「何かやり残したこと」があるような気がして、大学は東京に戻ろうと思っていました。
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プロティビティLLC最高経営責任者兼社長神林 比洋雄
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