
会計士の肖像
日本公認会計士協会
前会長(現相談役)茂木 哲也
今年7月、茂木哲也は任期満了により日本公認会計士協会会長を退任した。上場会社等監査人登録制度の導入に伴う監査事務所への指導、支援をはじめとする、さらなる監査品質向上のための任務などに奔走した3年間だったが、「できることはすべてやった」と振り返る。出身の新日本監査法人(当時)では、東芝の会計不正問題発生後の経営に携わり、信頼回復、組織の立て直しに尽力した経験も。会計士の仕事が多様化するなか、あらためて監査の意義、従事した者にしか得られない達成感を語る茂木のキャリアは、学生時代に簿記に出合ったことから始まった。
1967年、東京の東日暮里というまちで生まれました。今は日暮里駅から続く〝繊維街〟が有名ですが、実家はそれを抜けた先にあった繊維関係のけっこう大きな町工場でした。
時あたかも、日本は高度経済成長の真っただなかで、子供心に世の中はどんどんよくなっていくんだろうなあ、と実感できるような時代。同じ世代の子供もたくさんいて、みんな道路で缶蹴りをしたり、広場で野球の真似事をしたり。ただ、僕自身は、4人きょうだいの末っ子で甘やかされて育ったせいか、肥満体形でしてね(笑)。走るのが遅くて、そういう遊びはあまり得意じゃなかった。
自分で言うのもなんですが、小学校の勉強はよくできたんですよ。中学は、きょうだいにも卒業生がいた慶應義塾中等部に進学しました。普通に勉強していればそのまま大学まで上がれますから、なにか解き放たれたような気持ちになって。僕の中学、高校時代というのは、間違いなく人生のなかで最も勉強しなかった時期です。特に英語が、大の苦手でした。
高校は慶應大学日吉キャンパスの隣にありましたから、〝ミニ大学〟みたいな感じです。授業後は、駅前の喫茶店に入り浸って、友達と他愛のない話をしては、時間を潰していました。さすがに雀荘に顔を出したりはしませんでしたけど(笑)。
当時の慶應高校は、1学年900人ほどのマンモス校だったんですよ。そんな環境で、これといって自分のやりたいことも見つからず、1年生の時は〝帰宅部〟。2年になって、同級生に誘われて映画の製作をやりましたが、のめり込むというほどでもなく。でもまあ、自由な校風のなかで、それなりに楽しい高校生活を送っていました。
家が週6日稼働の工場だったこともあり、家族旅行の経験がなかった茂木には、旅に対する憧れがあったという。ならば、と在来線を乗り継いで一人旅に出かけるなど、「ちょっと大人びた高校生」ではあった。87年、慶応義塾大学経済学部に入学。経済を選んだのは、「看板学部だから」という単純な理由だったのだが。
当然、最初に経済学の入門から入るわけですが、イマイチ面白くない。考えてみれば、世の中の経済がどう回っているのかもよくわからないのに、いきなり学問として抽象化しましょうというのは、そもそも無理があるだろう、と今でも思うんですよ。
そんな感じで2年生になった時、選択科目に簿記というものがあった。それを取って勉強を始めたら、見事にハマってしまったのです。
簿記って、パズルみたいなものですよね。間違えずにちゃんとやっていけば、最後は右と左がピタリと一致します。きちんと結果がわかるし、基本的に〝算数〟の世界で、難しい〝数学〟はいらない。そんなところが、僕には水が合ったのでしょう。
商売をしている家で育ったというのも、大きかったと思います。身近に帳簿だとかがあって、時々税理士の先生が来て、親と売り上げの話などをしているのが普通の環境でしたから、浮世離れした経済学の世界より、経営まわりの物事のほうに親近感を覚えた部分も、多分にあったと思うのです。
2年生のうちに、日商簿記の3級、2級を取りました。3年になるとゼミに入るというのが普通なのですが、このまま大学のなかで経済学を勉強していくよりも、会計を極めるのが面白そうだ、と。そこで、当時流行り始めていたダブルスクールよろしく、予備校のTACに通うことにしました。会計士の資格を目指そうと考えたのは、そういうきっかけだったんですよ。
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日本公認会計士協会 前会長(現相談役)茂木 哲也
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