会計士の肖像
マイツグループ
CEO池田 博義
1993年の秋、初めて上海の地を踏んだ。あふれる活気に触発された池田博義は「中国で仕事をする」と即断。単身で上海に渡り、翌年、駐在員事務所を開いた。この時44歳、池田にとっては第2の創業である。それから20年近く。中国でのマイツは、上海に加え大連、蘇州などに8事業所を構え、1600社を超える日系企業をサポートするまでになった。業務は会社設立支援に始まって会計・税務、人事・労務、経営コンサルティング全般と幅広く、中国に拠点を持つ日系企業の“縁の下の力持ち”として、根を下ろしている。
京都生まれの京都育ち。時折のぞかせる京言葉の柔らかさに反して、池田は実にタフな人物である。信条は「やると決めたことは、何があってもやり抜く」。それは、池田のこれまでの軌跡が証明している。
京都友禅の染物屋に丁稚奉公していた父が、暖簾分けしてもらって独立したのが昭和16年。当時の職人は稼ぎがよくて、1カ月の利益で家を一軒建てられたというから、すごい時代ですよ。だから、家は裕福でした。父は寡黙でね、いつも周囲の話を穏やかに聞いているような人で、子供に対して怒ることは全くなかった。一番多い時で、40人ほどの職人さんが家にいたのですが、彼らに対しても待遇は同じ。とても大切にしていました。食事も全員一緒でしたから、大所帯の面倒を見ていた母は、さぞ大変だったでしょう。男ばかりの5人兄弟で育ちましたが、大家族で両親からも愛情を受け、本質的な意味でも豊かな環境だったと思います。
ただ、僕の下の弟が脳性小児マヒで、それがつらかった。何で弟だけがこんなことになるんだと。小学校3年の時、弟が学校に行けないのなら自分も行かないと、1学期間、登校拒否をしたこともあります。だから僕はずっと、医者になって弟の病気を治したいと考えていた。高校を卒業する間際までは。結局弟は、僕が23歳の時に亡くなりました。実家は兄たちが継いでいますが、この弟が体の苦労を背負ってくれたから、僕ら兄弟はうまくやっていけてるのかな、と思うんですよ。
同志社中学校に進学した池田は、野球・ラグビー・陸上部をかけ持ちするほどスポーツに才を発揮。中でも100m走においては、全国放送陸上競技大会で、当時の京都中学生として新記録を打ち立てた。タイムは11秒7。その半面、池田はとにかくケンカっ早く、持ち前の正義感から、納得いかないヤツに対してはよく手を出していた。
今は絶対やりませんよ(笑)。同志社って、けっこう軟派な学生が多かったから、むかついたらガツンとね。3年の運動会で、こんなことがありました。途中から雨が降ってきたので、男子の主競技である棒倒しだけをやめるという。僕は生徒会長を呼び出して、「みんな楽しみにしているのに、そんなもんで中止するな」と抗議。で、口論しているうちに殴りつけた。それが校長先生に見つかって、結果、1週間の謹慎処分。教室には入れてもらえず、校長とマンツーマンの特別授業ですよ。
この一件で、父は学校から呼び出しを受けたのですが、この時も怒らなかった。相手への謝罪を求められた際、
「この子が手を出すということは、相手にも非があるはず。処分は受けますが、謝りには行きません」。きっぱりとね。あとになって、父の喜寿のお祝いの時に、当時の気持ちを聞いてみたんですよ。そうしたら、僕に対する賭けだったという。「あれを境に、お前がちゃんとした道に進むのか、どうなるのか。怒ってどうなるわけでもなし、だったらお前を信じようと思った」。カッコいいですよね。だから、父はずっと僕の人生の師なんです。
高校もそのまま同志社に進学して、そこからは陸上一本です。中学生の時に、たまたま走った100mが京都中学生の新記録だと言われて、自分でもびっくり。それから夢中になって練習して、インターハイや国体にも出場しました。最高記録は10秒8。いくつかの大学からスカウトもあったのですが、ここでもまた事件(笑)。3年の時、大分国体への出場が決まって、現地に向かう列車でのこと。待ち時間に、社会人の選手が「池田!ビール買ってこい」と言うから、売店であわてて買ったビールを抱えて列車に乗り込んだ。その時の間が悪く、引率の先生に見つかっておとがめです。これは“濡れ衣”だし、僕は飲んでいないけど、まぁ買ったのは事実だから。結局、その国体では100mに出してもらえず、社会人との混合400mリレーだけ走って帰ってきました。この件がなければ、大学でも陸上を続けていたでしょうね。
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マイツグループCEO池田 博義