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「変革の時代だからこそ、監査人としての気概、泥臭さみたいなものは、改めて重要だと思う」
公認会計士浜田康事務所
浜田 康
会計士の肖像
谷古宇公認会計士事務所
谷古宇 久美子
「私は、街の赤ひげ先生でありたい」。28歳で独立開業した時以来の、谷古宇久美子(やこう・くみこ)の変節なき信念だ。事実、谷古宇は、庶民のために骨身を惜しまず働いた赤ひげ先生のように、中小企業の経営支援に全身全霊を傾けてきた。会計・税務にとどまらず、顧問先内部に踏み込み、継続的に成長するための施策指導や事業再生にあたる。とことん実践的に、かつ包括的に取り組むのが谷古宇のスタイル。そして、競争社会において日々戦っている経営者と伴走することで、彼女もまた、自らを磨き上げてきたのである。
熊本の地で創業100年を超えた文具問屋の「山中開信堂」。谷古宇は、九州で盛名を馳せたこの大店の娘として生まれたが、子供の頃、実家が倒産の憂き目に遭っている。しかしながら、この体験こそが彼女に“生き抜く力”をもたらしたのである。
幼い頃には、住み込みの手代さんもたくさんいて、商家の典型的な大家族のなかで育ちました。三代目だった父は、帝王学を身につける間もなく若くして店を引き継ぎ、今思えば、大きすぎた暖簾に押し潰されたのかもしれませんね。おそらく、ずっと火の車だったのでしょう。小学校低学年の頃には、屋台骨が傾いているのがわかっていました。年末ともなると、軒先には売掛金を回収しに来た業者さんたちがズラリと並ぶ。金庫を手に、奥座敷でやりくりしていた両親の姿を覚えています。おしゃまな女の子だった私は、怖い顔をしたおじさんたちを和ませようと、愛想を振りまいたものです。
結局、ある日、家は差し押さえられました。突然、家の前にロープが張られて出入りできない状態になり、幼心にも虚しさがいっぱい。最終的にはすべての財産を処分して清算したようですが……。
それから私たち一家は、熊本市の江津湖畔に引っ越し、小さな店を構えたのです。ところが、今度は父が交通事故に遭って身体が不自由になってしまいました。その後の家計を支えたのは母です。お嬢様育ちの母が、保険の外交員として働き始め、頑張ってくれました。父と祖母二人の世話、家事、そして4人の子供を育て上げたのですから、本当に昔の人はすごい。
「誰を尊敬するか」と聞かれれば、間違いなく母です。「女は母親になったら3時間寝ればよかよ。あとはしっかり働きなっせ」。よくそう言っていました。私も精一杯働き、妻として、母親として、66年間をとおしてすべての役割をやり切ることができた根源には、母の存在があるのです。
「腐っても鯛。今は貧しくても、お前は鯛なんだから、必ず大きく気高く、世の中という大海を泳げるようになる」。これもまた、母親が谷古宇によく言っていたことだ。だから苦境にあっても、谷古宇は明るく真っ直ぐに育った。元来活発で、学生時代は常にリーダーシップを発揮。なかでも芝居をつくるのが好きで、友達を集めては仕切っていたそうだ。また、いじめっ子がいれば、「待った!」と立ち向かう。そんな達者な少女だった。
お金がかかる稽古事はできなかったけれど、学校の勉強は、誰にでもできるでしょ。だから「私は勉学で一番になる」と思いながら、懸命に頑張ったものです。できることは、それくらいしかなかったから。
私には、倒産した実家を必ず再生させたいという強い思いがありました。そのためには上京して、一旗揚げるしかない。高校2年の時、中央大学に進学していた長兄から、公認会計士という資格があり、これを目指す女性は非常に少ないことを聞きました。それなら逆に成功する確率は高いと考え、公認会計士を目指すことにしたのです。その年、高校の修学旅行で東京を訪れた際、皇居を見上げながら「1年後に、ここで私の戦いが始まるんだわ」と未来の成功を心に誓いました。なかなかの野心家でしょ(笑)。
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