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「変革の時代だからこそ、監査人としての気概、泥臭さみたいなものは、改めて重要だと思う」
公認会計士浜田康事務所
浜田 康
会計士の肖像
PwC Japan有限責任監査法人
代表執行役井野 貴章
2023年12月1日、PwCあらた有限責任監査法人とPwC京都監査法人が合併し、PwC Japan有限責任監査法人が誕生した。代表執行役に就いた井野貴章(前PwCあらた代表執行役)は、「両者の強みを取り入れることで、より時代の変化に強い組織になれた」と評する。そんな井野が大学卒業後、PwCのメンバーファームだった中央新光監査法人に入所したのは1991年のこと。就職先に海外に強い事務所を選んだのには、そこまでの人生経験も反映されていた。
67年、東京・杉並区の生まれです。父親は、祖父が起こした編み機やタイプライターなどのメーカーに勤務していました。札幌テレビ局勤めから主婦になった母親は教育熱心で、兄弟で水泳、習字、ピアノと、毎日のように習い事に通う少年時代を過ごしました。小中学校は地元の公立校に通い、ドリフターズとか歌番組が好きなまあ普通の子供だったと思います。ところが高校受験が気になる頃から、なぜか突然学力が伸び始めた。それで慶應義塾高校を受験し、合格しました。
その後の人生を考えると、慶應に進学したのはラッキーでした。落第も珍しくなく、趣味や体育会やバイトにのめり込む個性強めの生徒ばかり。規則で縛る管理より、自覚と誇りによる自治があった。そこに身を置いて、一気に自分の世界が広がった気がしました。
2年の時、サンフランシスコに1カ月短期留学したのは忘れられない思い出です。昼は学校で授業を受け、ホームステイ先に戻る日々のなか、実感したのは片言でも英語でコミュニケーションが取れる楽しさ。そこでは、自分は日本のことを知っているようで知らなかった、という気づきもありました。現地の人から日本の歴史や価値観を聞かれても、「むむ?」と(笑)。一歩外に出た瞬間に、自分が何者であるのかを説明する必要がある。そこからコミュニケーションが始まるんだ――。若い時期にそうしたことを学べたのは、大きな収穫だったと思います。
高校時代は西麻布のレストランでのバイトに熱中。同店のスタッフはみな仲がよいだけでなく、「レストランビジネスを通じて夢を叶える」という高いマインドの持ち主だった。〝楽しく 働く素敵な大人たち〟の姿に接したことも得難い経験になったようだ。そんな高校生活を過ごし、86年、慶應義塾大学経済学部へ。そこでは、いきなり〝塾高上がり〟ならではの〝洗礼〟を受ける。
英語の1回目の授業で、先生が「下から上がってきた者は立て」と。私も含めてクラスの2割くらいが起立すると、「いいか、こいつらが問題児だ」と(笑)。確かに必死で受験勉強をしてきた学生と、楽しいレストランバイト生活を送ってきた僕との間に学力差があるのは事実。でも、面と向かってそう言われると悔しくて、大学では勉強しようと決めました。
その先生は、ものすごい量の宿題を出しました。アメリカのグラス・スティーガル法を授業で扱うので、事前に原文を読み込まないとなりません。毎週A3で20枚以上の翻訳を準備するんですが、意地になってやってたら、級友が買いたいと。売り物じゃないので自由にどうぞと。〝井野訳〟コピーが出回るようになったある日、先生が気づいて「誰がいくらで販売しているのか?」と。受験組の努力を内部生が買っていると想像されていたのでしょう。実は内部生が無償提供していたわけです。英語力はともかく努力は評価されてA判定。内部生のイメージが少し変わったなら嬉しいのですが(笑)。
経済学部には、公認会計士を目指して頑張っている学生が結構いました。触発されて簿記学校に行ってみたら、借方がなぜ左側にあるのか3カ月過ぎてもわからない。けれど、損益と純資産を合わせると必ずバランスする仕組みに興味がわきました。バイト代で楽しむ私の生活はいわば損益計算書で終わる活動。純資産と損益の合計が必ずバランスする世界には再投資する未来がある。企業と対話する会計士の仕事に強い関心を持つようになりました。
この時、一緒に勉強した仲間が2人いて、模試では3人とも運がよければ受かるかも、という感じで楽しく勉強していました。ところが、大学4年時の初受験で、なんと僕だけが不合格。ショックでしたが負けたままではいられません。他の人より1日早く始めれば、試験直前に自分だけの1日が確保できていると考えて、落ちたその当日からリスタート。この試験は勉強量が一定に達すれば必ず合格すると信じていました。
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PwC Japan有限責任監査法人代表執行役井野 貴章