- vol.75
-
「変革の時代だからこそ、監査人としての気概、泥臭さみたいなものは、改めて重要だと思う」
公認会計士浜田康事務所
浜田 康
会計士の肖像
有限責任あずさ監査法人
会長髙波 博之
ニューヨーク駐在を5年経験し、帰国後はメガバンクをはじめとする金融分野で活躍。公企業の監査も経験した後、一転してアドバイザリーを担当し、グループ内にコンサルティング会社を設立してその初代社長に――。2021年7月、あずさ監査法人に新設された会長職に就いた髙波博之の経歴は異色ともいえる。19年の理事長就任時には、各メディアから“本格派登場”と評されたりもしたのだが、本人は「とんでもない、という気持ちだった」と語る。それがかたちだけの謙遜でないことは、髙波が淀みなく語る半生に耳を傾けるうち、よく了解できた。過去の様々な実経験が、「会計士の存在意義を問い直し、法人を改革する」という俯瞰的な発想、それを実現する行動力に結びついていることも。
父親は福島の小高町(現南相馬市)で、町立病院の内科医をしていました。ところが私が5歳の時に、劇症肝炎で亡くなってしまった。1964年、前の東京オリンピックがあった年なのですが、正直、父と暮らした記憶はほとんどないんですよ。
それ以降を過ごした大曲(現秋田県大仙市)の母の実家は、代々の大地主で、祖父は地元で議員を務めるような、いわゆる町の名士でした。父親代わりの祖父の教育方針は明快で、ひとことで言えば、「自立せよ」。学校は出してやるから、後は自分でやっていきなさい、ということです。
祖母も、“怖い”人でした。何か悪さをすると、すぐに蔵に閉じ込めるのです。ただ、そんな祖母が、大学に入ってたまに帰省したりすると、すっかり優しくなっていて。本当は孫がかわいかったんでしょうね。片親だからと甘やかしたりしたら、この子のためにならない、と心を鬼にして、厳しく接してくれていたんだと思います。
しかしまあ、そんな親の心子知らずというか、高校に通うようになると、孫はとたんに勉強しなくなった(笑)。当時は自分も周囲も、当然、医師だった父親の“跡を継ぐ”と思っていたんですよ。ところが、ブームだったラジオの深夜放送にはまったり、日がな勉強とはあまり関係ない北杜夫のエッセイなどを読みふけったりしているうちに、とても医学部を目指せるような成績ではなくなっていました。母親の手前もあって、一応受験はしたものの、受かるはずもなく……。この時点で、医師の道は諦めました。さらに、いつもわがままを許してくれた母の無念の表情を振り切り“文転”を決意し、仙台の予備校に通うことにしたのです。
心機一転、親元を離れて頑張る――はずだったのだが、一人暮らしの環境は、“吉”とはならなかった。次なる“将来目標”を弁護士に定め、1年後の79年には、東北大学のほか、名だたる私大の法学部を受験するものの、あえなく全敗。合格したのは、他大学の受験日の“隙間”に受けていた中央大学商学部のみだった。
かなりショックでした。いとこたちは、みんな当時の国立大一期校や早慶大などに合格していたし、「俺は1浪してこれか」と。そういう経緯ですから、入学しても学ぶ意欲は、イマイチ湧きません。会計学科だったので、簿記をやるわけですが、「なんだこれ」という感じで。自慢じゃないですが、結局簿記2級に合格していないんですよ、私。こんな公認会計士がほかにいるのかどうか。名誉のために言いますが1級は合格しています(笑)。
そもそも公認会計士という資格があることを知ったのも、大学に入ってからのこと。しかも、医師資格とか弁護士資格に比べると……というのが正直な印象でしたね。
にもかかわらず、会計士試験を目指す気になったのは、すぐれて“不純な動機”から。大学に入学した年、伯母にモーツァルトのレクイエムのコンサートチケットをもらったんですね。カラヤン指揮のベルリンフィルです。衝撃でした。そこからは自費で、翌年のカール・ベーム率いるウィーン国立歌劇場、その次の年にはカルロス・クライバー指揮のミラノ座。すっかり魅了されて、「オペラが聴ける人生を!」と真剣に思ったのです。しかし、そのためには、ある程度の“お金持ち”になる必要がある。そういえば、会計士は稼げると聞いた……不純ですね(笑)。
一応、勝算はありました。ゼミで専攻した経済学は問題なし。商法もいけるだろう。簿記などを重点的にやれば、突破できるのではないか、と。ゼミの卒論を仕上げ、真剣に勉強を始めたのは大学を卒業した年から。私には理系の感覚があるせいか、何事も本質的なところを突き詰め、腹落ちしないとダメなんですね。理屈抜きに「これを覚えろ」「答案はこう書け」と言われても受け付けない。なので、まずは半年以上、理解を助けるためのノートの作成に専念しました。ノートが完成してからは、ひたすらそれを見直していく。作戦は当たり、翌年の84年に、公認会計士第二次試験(当時)に合格することができました。
実は先ほどの伯母とは、大学合格当時に、ちょっとしたやり取りがありました。「希望の大学には入れなかった」と愚痴をこぼしたら、「何言ってるの。神様はよく見ていて、あなたがいるべきところに入れてくれたんですよ」と。その時は軽く聞き流して終わりだったのですが、後から考えれば、おっしゃるとおり。私が幸運だったのは、人生の節々でそういう“大事な言葉”をかけてくれる人がいたことです。もちろん、こんなチャンスをくれた中大にも感謝しています。
この記事の続きを閲覧するには、ご登録 [無料] が必要です。
有限責任あずさ監査法人会長髙波 博之