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「変革の時代だからこそ、監査人としての気概、泥臭さみたいなものは、改めて重要だと思う」
公認会計士浜田康事務所
浜田 康
会計士の肖像
税理士法人古田圡会計
代表社員古田圡 満
午前8時45分。古田圡会計の一日は、活気にあふれた朝礼からスタートする。「本気のじゃんけん」「ハッピー体操」などを取り入れたこの“名物朝礼”、実際に参加してみると、聞きしに勝るパワフルさだ。率いる古田圡満(こだと・みつる)には、信念がある。「掲げているビジョン『日本中の中小企業を元気にする』を実現するためには、我々が元気であらねばならない」。すべてが率先垂範。それはマインドだけでなく、経営体質にも表れている。創業以来、30年連続の増収を達成。無借金で自己資本比率90%、売上高経常利益率20%という数字は、いわば中小企業の優良経営モデルとなっている。そのノウハウを余すところなく公開し、教えるのではなく“見せる指導”をするのが、古田圡会計の最大の特徴だ。「顧客に喜んでもらうためには何をすればいいか」――その一点だけに立ち、古田圡は愚直なまでに努力を重ねてきたのである。
茨城にある実家は商売を営んでいて、私たち男三兄弟は、子供の時分からごく自然に家業を手伝っていました。親父が燃料商から始め、材木商、建設業と、時代に合わせて商いを変えてきたのですが、その背中を見て育ったので、商売の面白さ、働くことの大切さは早くから感じていたように思います。親父にくっついて炭や薪を売りに行ったり、お袋がやっていた米や野菜づくりを手伝ったり。で、働いた後に、みんなで食べるおにぎりが旨かったとか、そんなのどかな記憶ばかりです。
田舎の商売ではありましたけど、従業員が十数人いたでしょうか。親父は、決して「人を使う」という言葉は使わず、誰に対しても常に「働いてもらっている」という姿勢でした。中学生の頃、私が“使用人”的な物言いをした時に、すごく叱られましてね。私が現在も、給料やボーナスを社員に現金で手渡しし、感謝の気持ちを伝えているのは、この時の記憶が強く残っているからです。言葉は人格を表す――親父の教えが、ずっと根幹にあるのです。
勉強はね、大してできませんでしたよ。数学と歴史が好きなぐらいで、あとは中の下という感じ。のんびりしてますから勉強に躍起になることもなく、中学では野球部に入って、男の子らしく夢中になっていました。チーム成績は、よくて地区大会準優勝どまり。部員が10人くらいしかいなくて弱かったんですけど、でも、朝から晩まで走り回って、楽しかった。ごく普通の子供で、あまりパッとしませんねぇ(笑)
中学生時代の作文に「将来は自分で商売をしたい」と記した古田圡は、数字に馴染みがあったこともあり、水戸商業高等学校に進学する。この頃は、珠算部一筋。かなりおとなしい少年だったらしく、現在の、夢やビジョンを熱く繰り返し語る古田圡を前にすると……意外な話である。
当時の商業高校では、珠算3級を取得することが卒業の必須条件だったので、珠算部に入ったというわけです。私は手先が不器用でね、自分に一番合っていない部ですよ(笑)。でも、必死に練習して県大会に出たりするのは楽しかったし、今も付き合いの続く同窓生たちに恵まれたのは財産です。
実はこの頃、私には商売が向いてないと思っていたんですよ。商業高校なので、秋にイベントを開催して物品販売をするのですが、私は肝心の「いらっしゃいませ」が言えない。純朴というかシャイというか、人前で話すのが苦手で。信じられないでしょう?今なんて、うちの社員が結婚式を挙げる時、「私にスピーチをさせないなら列席しない」くらいの勢いなのに(笑)。
そんな調子だったので、私が目指したのは税務署員。簿記や税務会計が好きでしたし、何より、公務員なら気張ってお世辞を言う必要がないし、商売をしなくていいから。それで、3年生の時に適性試験を受けたのですが、見事に落ちちゃった。じゃあ別の就職を考えたかというと、私には自信がなかったのです。友人たちの多くは、当たり前のように金融機関への就職を決めていきましたが、自分は本当にやっていけるんだろうかと。それほど内気だったのです。結局、親に頼んで、大学に行かせてもらうことにしました。人生、何が幸いするかわかりませんよねぇ。この時、税務署の採用試験に受かっていたら、今日はないのですから。
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税理士法人古田圡会計代表社員古田圡 満
[主な著書] 『中小企業は行列のできるラーメン屋を目指せ!』(秀作社出版)、『ドロくさいけど必ず結果が出る!経営計画のつくり方(CD-ROM付)』(あさ出版)、『掃除、挨拶、計画で会社は儲かる』(あさ出版)
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