- vol.75
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「変革の時代だからこそ、監査人としての気概、泥臭さみたいなものは、改めて重要だと思う」
公認会計士浜田康事務所
浜田 康
会計士の肖像
株式会社ビジネスブレイン太田昭和
代表取締役社長石川 俊彦
創業以来45年にわたり、実践的な会計コンサルティングとシステム開発を両輪に、顧客の利益創出に貢献してきたビジネスブレイン太田昭和(以下BBS)は、この領域における“老舗”だ。公認会計士、経営コンサルタント、システムコンサルタントが“三位一体”となって、顧客企業の懐に深く入り込む事業スタイルは、BBS独自の変わらぬ強みである。
石川俊彦は4代目社長として、現在、約900人(グループ連結)のメンバーを率いる。今も、自ら営業現場に出向くという石川と相対していると、“先生”というよりは“頼もしい兄貴”といった印象。学生時代に励んだラグビーで培った精神のもと、人を、チームを、何より重んじている。出生は名古屋市、電気工事会社を営む豪放な両親に育てられた石川もまた豪放で、幼い頃からエピソードには事欠かない。
僕は、幼稚園を3回“退園”させられているんですよ。最初は、先生を泣かせた事件。折り紙を教わる時間にね、先生が巧く折れないものだから、「僕が教えてやる」ってしつこく言っていたら、とうとう泣きだしちゃって。それから別の幼稚園では、やはり先生に対して「そういうものの教え方は間違いだ」と言い放ち、怒られて退園。あとは、園内がつまらなくて外で勝手に遊んでばかりいたら、これまた扱いにくいと。「もう行くところがない」と、お袋が困っていたのを覚えています。
かくいうお袋も、豪気な人でね。ある時、僕がくじ引きで当たる「赤胴鈴之助」の景品を欲しがっていたら、お袋は「くじを全部買うから、景品も全部ください」と、本当に買い占めてしまった。幼心に、大したもんだなって(笑)。とか、毎年10㎝近く身長が伸びていた頃、僕の体に合わせて制服を買い替えることが面倒だったお袋は、「世の中で一番大きな学生服をくれ」とお店で注文したりする。おかげで僕は、社会人になるまで着られるような学生服を着ていました。そのダブダブさを気にしない僕も僕だけど、親子して、すべからくそんな調子です。
電気工事会社の社長をしていた親父も、稼いだ金はすぐに気分よく使ってしまうタイプで。当時、どこの家庭よりも早くテレビを買っていたし、オートバイだの車だの……目新しいものは何でもあったけれど、まぁ家にはお金が残らない。気っ風がよくて、「喧嘩をするなら自分より強いヤツとやれ」というのが絶対の教えで、反しようものなら、容赦なくぶん殴られました。そんな時、お袋が家の前にまた布団とか敷いておくものだから、家の2階からだって投げ飛ばされる。とにかく、一風変わった家庭でしたね。
小学生の時分から、数字を覚えるのが大の得意。知能テストを受ければ名古屋市全体でトップクラスの結果を出し、身体能力も高かったが、世間的な評価など意に介さない石川は、むしろ「人に勝つことが嫌い」だったと言う。例えば、徒競走であれば、遅いクラスメイトの後ろにつき、「頑張れ」と励ましながら走る。そんな少年だった。
そもそも「なぜ人に勝ってうれしいのだろう」と。そこに価値を感じないから、全力を出しきらない。僕が頑張れるのは、弱い子やいじめられている子を助けたいとか、あるいは極めて単純な理由がある時。クラス担任に面白い先生がいましてね、長距離走で僕を本気にさせようと考えた先生は、僕が好きだった女の子を400m先に“設置”して走らせるという策を取った。そうなると、彼女に追いつきたくて、僕は誰よりも速く走ってしまう(笑)。
まぁ奔放なものだから、先生からはいつも怒られるし、親の呼び出しもしょっちゅう。「これはかなわん」と思った僕は、環境を変えようと、私立の東海中学校に進みました。中高一貫の進学校ですが、“教育不熱心”な親はそういうのに興味がないから、自分で願書を取りに行って、受験してね。
ラグビーを始めたのは、中学3年の時です。背が高いからと誘われたのですが、その時に「長続きはしないだろうけど」と言われたことがシャクに障って、結局、大学までずっと続けたんですよ。ポジションは、中高時代はロックで、大学からはフランカー。別段強いチームではなかったけれど、「誰が一番」じゃなく、各人の役割がきっちり決まっているこのスポーツが気に入って、真剣にやっていました。個々が得意とするものを最大限に生かし合い、チームとしてまとまっていく感覚が好きで、それは今の組織マネジメントにおいても、非常に生きています。
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株式会社ビジネスブレイン太田昭和代表取締役社長石川 俊彦
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