- vol.75
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「変革の時代だからこそ、監査人としての気概、泥臭さみたいなものは、改めて重要だと思う」
公認会計士浜田康事務所
浜田 康
会計士の肖像
PwC税理士法人
代表宮川 和也
大学を卒業した年に公認会計士第二次試験(当時)に合格した宮川和也は、監査業務からキャリアをスタートさせたが、サービス精神旺盛な宮川が求めてきたのは「クライアントに直に喜んでもらえる仕事」。それが、現在の専門領域である国際税務コンサルティングにつながっている。日本における黎明期より当該業務に携わり、クロスボーダー取引や大型の国際M&Aにも多く関与、チャレンジを重ねながらその専門性を磨いてきた。今は、会計士、税理士など約680名を擁する日本最大級のタックスアドバイザー・PwC税理士法人の代表として、役割を全うすべく奔走する日々だ。
生まれ育ったのは千葉県の市川市で、小さい頃はまだたくさんあった田んぼでザリガニを釣ったり、木登りをしたり……まぁ、どこにでもいるやんちゃ坊主。それが"受験子"になったのは小学4年の時。教師だった両親が教育熱心で、どうも私を医者にしたかったようです。中学受験のため進学校に転校し、塾も掛け持ち。傍からは「大変そう」と思われたかもしれませんが、つらいと思ったことは一度もなく、むしろ同じ価値観を持つ仲間と一緒に頑張るのが楽しかった。そんな環境が性に合うというか、目標を立て、実現のために何が必要かを考え、努力し、達成していく感覚が好きなんですよ。
結果、入学したのが三田にある慶應義塾中等部で、以降10年間、慶應で過ごしました。私は公務員の一般家庭に育ったので、中等部に入った頃は"格差"に驚いたものです。とんでもないお金持ちの子女がいますから。今でも覚えているのは、冬休み明けに級友が「シャモニーへスキーに行ってきた」と言った時のこと。私が聞き返したのは「そこは何県?」(笑)。それくらい生活が違うんだと。でも学校生活は本当に楽しかった。当時の友達とは今でも仲良しで、同窓会を年1回は開いているんですよ。医者になった同級生も多く、この年になると病気がちになるのでいろいろ助けてもらっています。
男子校の高校に進学してからは、もう自由で何でもアリ。1学年約800人のマンモス校で、友達と授業をさぼって遊びに行ったりね。いい意味でも悪い意味でも、自己責任が強い校風です。ただ、試験の時だけは帳尻を合わせ、そこそこの成績はキープ。要領はいいほうなので(笑)。
進路相談の際、成績上位者だった宮川は「十分に医学部を狙える」と言われたそうだが、本人が選んだのは文系コース。「親のいいなりになるのは何かイヤで」が、その理由だ。かといって、この段階では確たる将来目標もなく、宮川は当時の「慶大なら経済」という花形路線に乗って進路を決めた。
存分に羽を伸ばしてきたのはいいのですが、大学に入って早々、痛感させられたのは外部入学者のレベルの高さ。中高6年間のツケを実感しました。経済学部に進んだものの、職業イメージもなかったし、中等部からの仲間と「俺たち、このままじゃまずいな」と。焦燥感に駆られ、初めて「人生どうするか」を考えた。そこに友達が持ちかけてきたのが、公認会計士試験の話。文系最難関試験の一つだと知り、彼と共にチャレンジすることを決意したのです。独立志向のあった私にとって、専門家として生きる道は魅力的でもありました。その友達は途中で方向転換し、今は代議士になっていますけど。
勉強は専門学校に通いながら。中学受験の時と同じく「やれば結果が出る」ことが楽しくて、全然つらいと思いませんでした。ただ、クラブ活動の競技スキーだけは続けていて、冬になると合宿で雪山に籠もるから、勉強ができない時期もあったのですが……。
大学4年次に臨んだ初受験は、自信はあったものの結果アウト。さすがに挫折感があり、クラブ活動を引退して本当に受験一色になりました。もう1年頑張って、大学を卒業した年に合格しましたが、卒業後しばらくは"浪人"でしょう。一般企業への就職はいっさい考えず、何の保険もかけていなかったから崖っぷち。プレッシャーはあったけれど、根が楽観的なので「何とかなるさ」と。だいたいそんな調子なんです、私は(笑)。
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PwC税理士法人代表宮川 和也