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「変革の時代だからこそ、監査人としての気概、泥臭さみたいなものは、改めて重要だと思う」
公認会計士浜田康事務所
浜田 康
会計士の肖像
小見山公認会計士事務所 税理士法人麻布パートナーズ
総括代表小見山 満
会計監査と税務。両分野をカバーする実務家として、その手腕を発揮する小見山満には、もう一つ、長きにわたって先駆的に活動してきた分野がある。東京税理士会麻布支部では30年近く、日本公認会計士協会では15年、いずれも要職に就き、業界発展のために持てる力を注いできた。代表的なところでは、「会計参与の行動指針」「中小企業の会計指針」「政治資金監査」などといった“枠づくり”において、大きな貢献を果たしている。ずっと変わらず胸底にあるのは、「会計士と税理士が手を携えて、経済の基盤をなす中小企業を支えていくべきである」という信念だ。業界のみならず、社会全体の公益を視野に入れた本質的な活動を続ける小見山は、文字どおりの牽引者である。
生まれは岐阜県、育ちは東京の港区ですが、幼い頃の港区は、今と全然違って、原っぱが多かったんですよ。とにかく体を動かすのが好きで、ガキ大将だった私は、外を駆けずり回ってばかり。仲間たちと原っぱに隠れ家をつくったりして、暗くなって親が探しに来るまで、よく遊んだものです。
スポーツは何でも得意でした。小学校3年の時、体育の先生が担任になったことで“開花”。当時は港区の大会しかなかったのですが、陸上競技では、短距離走、幅跳び、高跳び、ハードル走など、次々に新記録をマークしました。水泳でも、アメリカンクラブとの対抗戦で新記録を出して優勝。特段、トレーニングをしたわけじゃないし、運動会の延長みたいな感覚でしたから、どうとは思っていなかったのですが、今思い返せば、すごかった!と(笑)。
そのぶん、勉強は好きじゃなかったんだけど、親父が巧くて。「試験で満点を5回取ったら、外食に連れていってやる」とニンジンをぶら下げる。外食なんてハレの日に行けるぐらいの時代でしょ、私みたいに単純なヤツは釣られて頑張っちゃう。特攻隊の生き残りだけあって躾には厳しく、いきなりゲンコツで殴るような親父でしたが、勉強に関しては、口うるさく言うより褒めて伸ばす方式で、それは結果的によかったですね。
成績のよかった小見山は、担任に勧められて中学受験をする。変わらず遊び回っていたから、遅まきの受験勉強スタートだったが、晴れて、名門校で知られる麻布中学校に入学。身体能力の高さを買われ、勧誘された運動部を掛け持ちし、イベントにも熱くなりと、中高一貫の6年間、小見山は存分に学校生活を楽しんだ。
6年間夢中になって続けたのは、バドミントン。最初は興味なかったんですよ。練習を見た時に「こんな羽根突き、やりたくないな」と思わず声にしたのを、先輩に聞きとがめられて、「なら、お前やってみろよ」と。で、やってみたものの、全然できなくてシャトルコックにすら当たらない。悔しくて入部したんです。伝統ある運動部で厳しかったけれど、インターハイにも出るくらい強かったし、私も主将を務め、本気で打ち込んだ。ちなみに、少し上の先輩には小林健三菱商事社長、佐藤康博みずほFG社長がいます。
麻布学園は校則に厳しくないし、本当に自由な校風なんです。その代わり、自分たちで責任を持てという世界で、私の性には合っていた。楽しくて、けっこう無茶したものです。高校2年の時だったか、京都への修学旅行を有志で企画し、先生たちと一緒に行ったんです。でも、学校が準備した民宿の夕飯なんて食いたくないから、窓から逃げて料亭へ。もう時効ですが、その時の写真には徳利が写ってる(笑)。そんな悪さもいい思い出です。
進路を考え始めたのも、2年生の頃。最初は理科系で、医者になろうと考えていたのですが、税理士として事務所を構えていた親父の後を継ぐのは自分だろうと、途中から文科系に転向しました。親父は一言も強要しませんでしたが、世情的に、家業を継ぐのは長男の義務でしたし、私も自然とそういう気持ちになっていったのです。同時に、後を継ぐのなら会計士を目指そうと。漠然とですが、よりグローバルに思えたからです。麻布高校の文科系は「東大法学部」を目指す学生が多いのですが、私はそんな思いから、経済学部を受験することにしました。
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小見山公認会計士事務所 税理士法人麻布パートナーズ総括代表小見山 満
[役職など]
日本公認会計士協会前副会長、東京税理士会麻布支部前副支部長、慶応義塾大学大学院特別招聘教授、総務省政治資金適正化委員、国際会計基準審査会(IASB)の「IFRS for SMEs」委員会元委員など多数
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