会計士の肖像
株式会社ちふれ化粧品
代表取締役社長片岡 方和
69年、大学卒業後に就職先に選んだのは、エンジニアリング大手の千代田化工建設だった。物理学科に置かれていた企業の募集要項を眺めつつ同社をチョイスしたのは、当時の玉置明善社長の「42歳で定年」「実力主義に徹する」といった言葉に惹かれたからだ。
「42歳でちゃんと退職金も出すから、別にやりたいことがあったらやってもらいたい」というようなことが書かれていたんですよ。これは面白そうだと。
実は、何をする会社なのかよく知らなかったのですが、配属されたのは計数技術グループという部署です。当時日本で2台目だという触れ込みの、IBMの最新型コンピュータを夜中まで動かして、理系から事務系から、いろんな計算をやっていました。
〝理系〞に関していうと、取り組んだのは、線形計画法という手法を使って、建設する製油所の最適化を導き出すという課題でした。どれだけの規模のプラントを造れば、最も効率的に最適な製品が生産できて、利益を最大化できるのか、といったことを計算するわけです。最適化計画自体、すごく新しい学問領域で、これは楽しかった。
ただ、どんなに新しいものでも、同じことを4、5年もやっていると、飽きてくるわけです(笑)。そこで、人事に行って「経理に行かせてください」と申し出たんですよ。
なぜ経理だったのか、ですか?線形計画法の計算も、結局最後は〝お金〞なんですね。「最も儲かる製油所にするにはどうするか」という話ですから。となると、もう少し会社のお金のことを知らないとダメなんじゃないかな、くらいの軽い気持ちです。
ところが、人事の担当からは、「君は技師として採用したのであって、事務で雇ったわけではないんだ。少し考えを改めなさい」と言われてしまった。私には、「君の成績では京大は無理だ」という、高校時代の担任と同じ言葉に聞こえました。
「そんなふうに、杓子定規に自分の人生を決められたらたまらない」という思いに駆られた片岡の中で、〝軽い気持ち〞は、〝絶対に実現する目標〞に転化していた。そのために決断したのが、会計士資格取得だったのである。そこまでやれば、経理への異動を拒む理由はなくなるだろうと踏んだのだ。入社4年目、26歳になっていた。
前の年に結婚して、ちょうど試験勉強を始めた頃に子供が生まれたんですよ。それもあって、今までどおりフルに働いて稼ぎながら、合格を勝ち取らなければなりません。模試を受けることはありましたが、それ以外は独学です。受験を決意すると、すぐに本屋で資格試験向けの全7冊の『会計士講座』を購入し、順番に読み始めました。私は、子供のように8時間は寝ないとダメなタイプなので、平日の家での勉強時間は3時間半ぐらいだったでしょうか。往復2時間の通勤電車の中は、誰にも邪魔されることなく勉強に集中できる、貴重な時間でした。時々目をつぶって、暗記した条文なんかを思い出しながらブツブツ言っていましたから、周囲からは不審に思われたかもしれません(笑)
ただ、目論見どおり、本を読み込めばだいたいのことは理解できました。意外にわかりにくかったのは、簿記ですね。「簿記論」と銘打っているのに、〝論〞にはなっていないように感じて。
そうやって2年間勉強して、「これならいける」という自信が持てたので、当時の会計士二次試験を受け、見事に合格。嬉しかったですよ、「これで文句はないだろう」と思いましたから。
でも、現実は甘くなかった。直属の上司に「会計士試験に合格したので、経理に行かせてください」と話したら、「いや、君は技術でやってもらう」と。その上の上司にも直訴して「では僕が話してあげよう」ということになったのですが、戻ってくると、「やはりノーだ」と言うのです。聞いてみると、「会計士資格を取ったら、退職するのではないか」というのが、現場の懸念だったようなんですね。「経理には機密事項もある。そんなのを抱えて辞められたら困る」と思われていた。
確かに、合格直後からいろんな監査法人などからパンフレットが送られてきましたけれど、こちらには、転職するつもりなどありません。その気持ちを説明しても、なかなかわかってはもらえない。ただ、それでも諦めずにアピールしていたら、営業企画部の部長から、「私のところで拾ってあげようか」と声がかかったんですよ。希望とは違うけれど、新しい仕事ができるならと、そちらに移ることにしました。
ここでは、初めての海外出張を経験しました。数年前に第1次オイルショックが起きて、原油価格がうなぎ上りに上昇していた時代です。逆に中東にはオイルマネーが集まっていた。プラント建設を請け負う千代田化工にとっては、チャンスだったのです。そこで、現地で情報収集したり、銀行と折衝したり。そんな仕事に携わりました。
株式会社ちふれ化粧品代表取締役社長片岡 方和