会計士の肖像
東京共同会計事務所
代表パートナー内山 隆太郎
後に同事務所の屋台骨に育つSPCを、内山は監査法人時代から〝触って〞はいた。だが、90年代初頭に鳴り物入りで導入された資産証券化ビジネスは、ずっと低空飛行を余儀なくされ、独立後もこの世界のプレーヤーは次々に舞台から去っていく。それでも手放さなかったのは、「SPCが好きだったから」。その一点だ。
あの時代、証券化が鳴かず飛ばずだった理由をひとことで言えば、日本では金融の自由化が遅れていて、「難しいわりにコスト負けする」という構造になっていたからです。要するに儲からない。だから金融機関の証券化の担当者も冷や飯、我々も冷や飯、という状況でした。
でも、当時の私には「独立して、困難な仕事に取り組んでいる」ということ自体に嬉しさがあったんですよ。知識を組み合わせて問題を解決していくという、パズルを解くようなアプローチは面白かったし。同じ〝境遇〞のお客さまと一緒に手弁当で耐えしのぐ、そんなところも悪くはなかった(笑)。
市場の風向きが変わってきたのは、96年くらいからですね。97年の資産担保証券発行の解禁も追い風に、証券化案件がようやく動き始めたのです。そうなると、お客さまはSPCの会計・税務面のコンサルティングを行う会社と事務管理会社がほしい。誰がいるのかと見渡してみたら、我々以外にいないじゃないか、ということになったわけです。マーケットの拡大に伴って依頼はどんどん増え、売り上げの水準も変わってきました。大型案件も手がけた当事務所は、おかげさまで「SPC会計のパイオニア」として認知される存在になりました。
私に「いつかSPCがブレークする日が来るはず」という強い確信があったわけではまったくないんです。やりたいことを細々と頑張っていたら、ある日、波に乗っちゃった、というのが正しい。あれも一つの運だったと、今は感じます。
雌伏の時を耐え、ようやく追い風をとらえた航海。しかし、そのまま順風満帆とはいかなかったのもまた、運命か。仕事が増えれば、人も要る。スタッフィングも求められる。だが、「ルーティーンに乗るのは得意だけれど、それを設計するのはイマイチ苦手な会計士」にとって、成長し続ける事務所の管理を徹底するのは、簡単な仕事ではなかったのだ。慢性的な「オーバーキャパ」のなか、やがて事務所内にはギクシャクした雰囲気が漂うように。
今から振り返ると、業績が伸びて、若い優秀な人もどんどん入ってきた2004年頃が、事務所の第一次黄金期でしたね。でも、「このままだとまずいぞ」という予感は、その当時からあったんですよ。
独立当初、SPCでは食べられませんでしたから、うちはコンサルティングの売り上げ比率が高かったのです。それがSPC市場のブレークで逆転して、人員的にもコンサルを削減してSPCに回すというかたちになったわけですが、それでも人が足りない、採用が間に合わない。SPCだけで、アップアップになってしまいました。とにかく目の前の案件をこなさなければという環境で、クリエイティブな空気が徐々に薄れていった。事務所で〝閉塞〞という言葉が頻繁に聞かれるようになったのは、この頃です。実際、離職者も増えました。
そんな時に起こったのが、08年秋のリーマンショックです。ここまでの流れだと、典型的な〝泣きっ面に蜂〞パターンですよね。実際、売り上げの減少は痛かった。ただ、実はリーマンショックは、うちにとって〝神風〞でもありました。受注がパッタリ止まったために、内部の建て直しに時間をかけることができたからです。
ガタがきていた体制を組み直し、〝アップアップ〞を解消するため、減収のなか、人員は倍に増やしました。同時に外注費や諸経費の見直しを徹底したら、それだけで数億円ほど浮いた。それまでどんな〝殿様商売〞をやっていたんだ、という話ですけど(笑)。
事務所のトップとして、メンバーたちと正面から向き合う努力もしました。〝三つ子の魂百まで〞なのか、私は今でも内向的で人間的な摩擦は苦手なのですけど、メンバーをお茶に誘って、率直な声を聞いたり。ある時、全員に経営に対する意見を求めたら、「上は正当な評価をしていない」などなど、全部で百数十個の〝文句〞が集まって。ちょっとへこみましたが、それらにもすべて実直に回答しました。苦労したけれど、曲がりなりにも経営らしくなってきたのは、そのピンチを乗り越えてから。それは間違いないですね。
東京共同会計事務所代表パートナー内山 隆太郎