会計士の肖像
篠崎公認会計士事務所
篠崎 真吾
だが、現実は甘くなかった。同業が林立したことなどから、あれよあれよという間に、会社はピンチに。内部では、新規事業をめぐって意見の対立も表面化する。「じゃあ辞めます」と仲間と袂を分かったのは、退学からおよそ2年後のこと。27歳になっていた。
実は大学4年を修了したあたりの時、結婚していたんですよ。これも、当時そんな言葉はなかった「できちゃった婚」です。
今でも覚えてますねぇ。アパートのドアを開けて、「ただいま。今日、会社辞めてきたから」と言ったら、「これからどうするの?」って驚く妻の腕の中で、2人目の赤ん坊がピーピー泣いてて。さすがに、困ったな、と。「第2新卒」なんて概念もない時代だし、そもそも“高卒”だし(笑)。
そこで考えたのは、とにかく「食える資格」を取ること。一応“法学部出身”ですから、まず頭に浮かんだのは、弁護士です。でも、「何年で資格が取れますか?」と専門学校に問い合わせたら、「3年でなれる人もいます」と。それはリスキーなので、諦めました。
次に考えたのが、会計士資格だったんですよ。辞めた会社では、会計ソフトも手がけていたんですね。会計学って、文系のくせに、縦横ビシッとしてるじゃないですか。美しいな、という印象を持っていました。一橋には、会計士になる人間も多かったし。
で、やはり会計の専門学校に同じ質問をしたら、「来月開講する1年本科から、毎年10人くらいは合格者が出ますよ」と言うわけです。それで決まり。
生活がかかっていますから、それはもう背水の陣です。脇目もふらずに勉強しました。その甲斐あって、なんとか1年で合格できました。嬉しいというより、ほっとしましたね。
合格したのが90年ですから、バブル経済の頂点の頃です。会計士が足りなくて、監査法人からは引く手あまたでしたけど、結局、中央新光監査法人の国際部に入りました。クーパース・アンド・ライブランド・インターナショナルと提携していて、このセクションなら、英語力で自分を差別化できるかな、という計算もありました。
実際、クーパースの米国事務所からマネージャーなんかでやってくる人間たちは、日本語がしゃべれない。英語が通じる僕は、重宝されました。
監査の仕事も面白かったですよ。自分たちで会社をやっている頃、経営なんてわからないことだらけ。例えば「ほかの会社は、在庫管理をどうやっているんだろう?」と思っても、知る術はなしです。
ところが、監査に行くと「先生」なんて呼ばれて、そういう“秘密”を全部教えてくれるわけです。目の前にある数字がどうやって出てきたのか、洗いざらい。本当に勉強になりました。
とはいえ、はっきり言って僕には、「一生監査法人にいて、パートナーを目指すぞ」というような気持ちは、ぜんぜんなかったんですよ。こんなことを言うと、“本業”の方に怒られそうだけど、自分の中では、会計士のライセンスは、もらえなかった大学の卒業証書の代わり。あくまでも“食うための手段”で、「早く資格を取って、ビジネスの側に戻りたい」、なおかつ「できれば独立したい」という漠然とした思いを、ずっと抱いていました。
篠崎公認会計士事務所篠崎 真吾